西行とお妙さん


和歌山県立博物館で開催された 「西行展」 に、江口の君の肖像画が出ていました。
制作されたのは江戸時代です。
江口の君は普賢菩薩の化身と見なされていたので、白象に乗っています。
江口の君とは、江口の里にいた遊女のこと。



大阪市東淀川区の江口というところに 江口の君堂 という小さな寺院があります。
正式には、普賢院寂光寺といいます。


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このあたりはその昔、交通の要所だったところで、歓楽街があり、旅人相手の遊女も多くいたそうです。
ちなみに、『続日本紀』 天平宝字三年(759)十二月十九日条に、高麗からの使者が難波の江口に到着したとの記事があるので、江口が奈良時代から要所だったことが分かります。


さて、西行法師。
天王寺へ参詣に向かう途中、にわか雨に遭い、摂津の江口の里で雨宿りをお願いしたところ、断られてしまいました。
問答歌が 『新古今和歌集』 に載っています。


天王寺へ詣で侍りけるに にわかに雨の降りければ 江口に宿を借りけるに 貸し侍らざりければ よみ侍りける

                     西行法師
世の中を厭ふまでこそ難からめ かりのやどりを惜しむ君かな

  返し                 遊女妙
世を厭ふ人とし聞けば かりの宿に心とむなと思ふばかりぞ




かりの宿を貸すことなど出家するほど難しくないのに、それがダメだなんて! と不満を言ったら、あなたは出家した方なのだから、この世という仮の宿に執着するのは、ちゃんちゃらおかしいでしょ! と江口の君、西行をやり込めました。
「かりのやどり」 を一時的な雨宿りの意味で使った西行に対して、はかないこの世という仏教的な意味で切り返した江口の君は教養のある女性だったのでしょう。
ちと出来過ぎな感じもしますけど。

この問答歌は、西行の歌集 『山家集』 にも載っています。
ただし、『山家集』 では、返歌の初句が 「いへをいづる」 となっていますし、“妙” という名前もありません。
おそらく後年、何かのきっかけで 『新古今和歌集』 のほうに “妙” という名前が付いたのでしょう。
出家した西行が遊女と歌を詠み交わすという状況に想像力が掻き立てられて、後年、謡曲ができたり、画題としてしばしば取り上げられました。
謡曲では江口の君は普賢菩薩となって、西の空へ消える話になっています。
普賢菩薩は女人成仏を説く法華経に登場し、特に女性の信仰を集めました。
このため普賢菩薩の化身の江口の君自身も、信仰の対象となったようです。
そういえば、法華経は妙法蓮華経とも言うので、“妙” という名前もここから来ているのかも。

江口の君 “妙” はその後出家して光相比丘尼と名のり、元久二年(1205)、ここに庵を結んだと伝えられています。
寺伝によると、お妙さんは 平資盛 [たいらの すけもり] の娘 だそうな。
平清盛のひ孫にあたります。
平重衡にとっては、甥の娘になります。
しかし、西行は平清盛と同い年なので、清盛のひ孫と歌を詠み交わすのは時代設定に無理がありますな。
寺伝ですからと言われれば、それ以上何も言えませんが。
それにしても、なぜ平資盛なのだろう。
資盛は、三草山の戦いで源義経にボコボコにされ、その後、壇ノ浦で海へダイブした人。



二基の五輪塔が西行塚と君塚
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江戸時代に出版された大阪周辺名所ガイドブック 『摂津名所図会』 には、境内に西行塔、江口君の墓、西行桜があると書いてある。平資盛のことは一言も触れていませんが。。。






歌塚
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向かって右側の面には西行の歌、左側の面には遊女妙の歌が刻まれています。






句碑
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かろうじて “青畝” と読めたので阿波野青畝の句と分かりましたが、達筆過ぎて判読不能。






由緒書
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ここには平資盛の名が。。。





江口の君堂








≪余談1≫

 江口の君堂の最寄駅となる阪急京都線・上新庄駅から南東方向に徒歩約8分。
 「かぶと公園」 があります。
 このあたりは全国各地にある平景清伝説地のひとつのようです。

 公園にある石碑には、こう刻まれています。

「源平の戦いに敗れた平家の落武者平景清が、かくまってくれた伯父の三宝寺大日房能忍を過って殺害したのを悔やんで、このあたりで冑 [かぶと] を脱ぎ捨てて立ち去ったと言い伝えられています。いまもこの付近から淀川堤防までの一帯の地を 「かぶと」 と称し、「かぶとみち」 の名も残っています。その由来からこの公園をかぶと公園を命名します。」


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≪余談2≫

 野崎観音 (大阪府大東市) は、正式には慈眼寺といいます。
 近松門左衛門の 『女殺油地獄』 や近松半二の 『新版歌祭文』(通称、「野崎村」) の舞台になっていることでも知られています。
 境内には、お染久松の比翼塚もあります。
 このお寺、開基が行基菩薩とのことです。
 中興の祖としてお堂で祀られているのは、江口の君です。


江口の君堂 @野崎観音
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祀られている江口の君の像の写真
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平資盛の娘?



六根清浄とバラバラ心経


東大寺総合文化センターで2018年11月24日(土)、ザ・グレイトブッダ・シンポジウム (GBS) の第1日目があり、聴講しました。


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今年のテーマは、「明治時代の東大寺 -近代化がもたらした光と影-」。
この日の講師は講演順に、島薗進先生(上智大学)、田中利典師(金峯山寺)、狹川宗玄師(東大寺長老) のお三方。
演題はそれぞれ 「近代仏教の見直しと東大寺」、「明治期における神仏分離と修験道」、「東大寺に残る神仏習合」 でした。
ワタクシがこの数年で聴講した講演会の中で、三本の指に入るくらいの素晴らしい内容でした。


田中利典師は、金峯山寺の 「顔」 といっても過言ではない著名人。
「新TV見仏記」 で仏友ふたりが金峯山寺を訪れた際、対応したのも利典さんでした。
金峯山寺が昔から東大寺と深い関係だったことに触れ、東大寺法華堂(三月堂) でかつて行われていた 「千日不断花」 は回峰する修験の行であることも紹介されました。
明治時代に入って神仏分離により修験道が禁止されたため、金峯山寺が大変なことになった話の中で、ゴルゴ13が出てきたのにはビックリ。
キーワードは 「グローカル」。
グローバルな仏教とローカルな神道が結びついた 「グローカル」 な実践宗教で、大自然を道場とする山の宗教が修験道。
大峯の山中を行く修験者たちの画像を見ながら少し体験していただきましょうということになり、聴講者全員がその場に立ち、「さーんげさんげー、ろっこんしょーじょー」(懺悔、懺悔、六根清浄) の掛け念仏を唱えることに。
利典さんの先導で、しばらくの間、大声で唱えましたよ。


狹川長老さま。
よく通る張りのあるお声で、とても98歳とは思えません。
東大寺における神道関係のお話です。
二月堂修二会における神仏習合に係わるお話しもたくさん聞けました。
例えば、修二会本行の前日に行われる 「大中臣祓」[おおなかとみのはらえ] で咒師が唱える言葉(実際には声に出さず黙誦) の意味を紹介され、「大一」は太陽のこと、「徴明」や「河魁」 は星の名前と思われるので、神道のほか陰陽道などの影響もあるようだとのこと。
修二会本行中に読み上げられる神名帳についてもお話しがありました。
僧形八幡神坐像がおわす八幡殿での勤行では、「バラバラ心経」 という東大寺独自のお経が唱えられますが、なんと長老さま、直近の勤行で唱えられた 「バラバラ心経」 をポータブル・レコーダーで録音し、この講演会で披露されました。
ちゃんとご自身でレコーダーを操作して再生されるのにびっくりです。
この講演会のために事前に文字起こしをして資料化し、語句の意味を調べたのもすごい!
好奇心衰えずです。
東大寺の僧侶だけに口伝で伝わっている、暗号のような 「バラバラ心経」。
般若心経の語句と神道系の語句がちりばめられているのですが、「えぞ、えぞ・・・」 とか、「だあだだだ・・・」 とか、「めか、めか・・・」とかの謎のリフレインもあります。
昔、摂社(?)の前を通るときに 「バラバラ心経」 を唱えることができたら、東大寺の僧として認められて通してもらえた、という言い伝えがあるそうです。
そのほかにも、「ここだけの話ですが」 という秘話をたくさんしてくださいました。
長老さまのお話を聞く機会が今年は2回もあって、たいへんありがたいことでした。



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胡宮神社


“ちょうげニスト” としては、胡宮 [このみや] 神社も外せません。


胡宮神社
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多賀大社から南へ徒歩15分ほどの胡宮神社は、敏満寺 [びんまんじ] の鎮守社でした。
敏満寺はかつて湖東地域で大きな勢力を持つ大寺院だったようですが、戦国時代に焼き討ちに遭って廃寺となりました。
寺院の中心部は現在の胡宮神社の境内付近だったそうです。
胡宮神社には難を逃れた寺宝が伝わっています。



(1) 金銅三角五輪塔
 塔の底に刻まれた銘文により、俊乗房重源が建久九年(1198) 12月に敏満寺本堂に奉納したものと分かります。
 高さは約40cm。
 経済的に豊かだった敏満寺は東大寺再興のために多額の寄付をしたらしく、後日、大願を果たした77歳の重源さんからお礼に贈られたもののようです。
 重源さんの事績が記された 『南無阿弥陀仏作善集』 にも、この塔のことが出ています。


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(図録より拝借)




胡宮神社境内にある三角五輪塔
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石造の模造品です。
オリジナルの約2倍の高さとのこと。





(2) 舎利寄進状
 重源さんが上記の金銅三角五輪塔を敏満寺に奉納した時の添え状です。
 重源さんの花押もあります。


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(図録より拝借)





(3) 重源書状
 元久元年(1204)、重源さんは南都焼き討ちで焼失した東大寺東塔の再建に着手しています。
 完成したら大仏殿と東塔の前で千人のこどもに 『法華経』 を転読させたいと願っていたようで、この書状は敏満寺に対して周辺のこどもを何人か寄こしてほしいと要請したもの。
 残念ながら重源さんは、建永元年(1206) 6月5日、東塔の完成を見る前に86歳で亡くなりました。




(4) 仏舎利相承図
 白河法皇が中国から入手した仏舎利が、祇園女御に伝えられ、さらにそれが 平清盛 に伝えられたことを示す、鎌倉時代初期の文書。
 平清盛の実父が白河法皇で、実母が祇園女御の妹であることが記されている、大変よく知られた文書です。




これらの寺宝は現状は胡宮神社にはなく、博物館(町立文化財センター?) に寄託されているようです。



境内にある重源さんの顕彰碑
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滋賀に重源さんの碑があるとは存じませんでした。







少し高台にある境内から見た風景。

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この風景を見てピンと来た人は、正倉院に伝わる古地図に相当詳しい方でしょう。
今は人家が多いですが、このあたりはかつて水沼 [みぬま] 荘という東大寺の荘園でした。
天平勝宝三年(751) に描かれた 「近江国水沼村墾田図」 はまさにこのあたりの絵地図で、写真左手に見える池(かつて水沼池と呼ばれた大門池)も描かれています。
この池は奈良時代からこの辺りの田を潤してきました。
平安時代の古文書には、東大寺法華堂(三月堂) で行われる千灯会の経費をまかなうための荘園として記録されています。


境内にある水沼村墾田図の模写
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境内は紅葉に覆われていました。

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寺はなくなっても、地名に残っています。

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東大寺にゆかりのある水沼荘の地と、重源さんにゆかりのある敏満寺の跡を訪れることができて、至福の旅でございました。



胡宮神社



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Author:なむさいじょう



阪神エリア在住のおっさん。
時間を見つけては奈良めぐり。

※2013年までの過去記事は本サイトへインポート後、一部を除いてリンクの更新等を行なっておりませんので見苦しい部分があります。ご了承ください。
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