在原業平ゆかりの地を行く(30)



32.長岡天満宮

 長岡天満宮がある長岡京市は桓武天皇が平城京から都を遷して長岡京を造営したところで、
 天満宮のあたりはもとは菅原道真の所領だったそうです。
 道真は在原業平らと共に、この長岡の地でしばしば詩歌管弦を楽しんだと伝わっています。

 『伊勢物語』 には、長岡ゆかりの段がふたつあります。
 ひとつは第五十八段で、風流な色好みの男が長岡に家を作って暮らしていた話。
 もうひとつは第八十四段で、平安京で宮仕えしているのでなかなか会いに来てくれない息子 (業平) に、
 長岡に隠棲している母 (伊都内親王) が年老いたので会いたいと詠んだ歌を書いた手紙を出した話。
 業平はその手紙を読んで、泣きながら母親の長寿を祈る歌を詠んだ、とこの段を結んでいます。
 とかくプレイボーイ的な一面だけを見られがちですが、母思いの心優しい人物でもあったことを伺わせるエピソードですね。
 内親王と業平の歌のやりとりは、古今和歌集にも載っています。




長岡天満宮
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ここでも昭和な女の子が手水の作法を教えてくれます。
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八条ケ池
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境内の東にあるこの池には、料亭の座敷部屋がせり出している。







≪余談1≫

 菅原道真は在原業平の20歳ほど年下。
 道真を大宰府へ追いやった藤原時平は、業平の46歳ほど年下。
 在原業平の孫娘はお爺ちゃんのDNAを受けついだ美貌で評判の女性で、藤原時平は彼女を妻にした。




≪余談2≫

 奈良・不退寺の本堂には、業平の父・阿保親王坐像だけでなく、母・伊都内親王の位牌も安置されています。




≪余談3≫

 業平の母・伊都内親王は、桓武天皇の皇女。
 内親王が山階寺 (いまの興福寺) の東院西堂に香灯読経料を寄進したときの願文 『伊都内親王願文』 は
 三筆のひとり橘逸勢の書と伝わるもので、天長十年 (833) 年九月二十一日の日付があり、
 最後に 「伊都」 と内親王自筆の署名が残されています。
 この願文は御物、つまり皇室の私有品になっています。
 なかなか実物を拝見する機会がありませんが、国立国会図書館のサイトで写真が公開されています。 →
 20コマ目に内親王自筆の署名が見えます。
 大昔の人や伝説的な人の自筆署名を見ると、ぐっと身近な存在に感じます。
 しかもこの願文には内親王の手形が朱で捺されているので、ますますその感を強くします。
 (上記のサイトのモノクロ写真では、不鮮明でよく分かりませんが)







長岡天満宮





業平忌2017



在原業平の命日にあたる5月28日、ゆかりの奈良・不退寺で業平忌の法要があり、
今年2017年も参列することができました。

この日の拝観料は、通常よりお高くなります。
昨年は山門の受付で拝観料を払う際に拝観パンフレットのほかにお菓子(落雁)を頂けましたが、
今年はさらに記念の散華も1枚頂けました。

また、この日だけ多宝塔の中に入って壁板に描かれている真言八祖の絵を拝見できます。
絵はかなり剥落していて、少々心配です。


定刻になると、近隣の真言律宗寺院のお坊さんたちが本堂へ入堂。
昨年と同じように、海龍王寺のイケ住、般若寺の若い坊さんもおられました。
三礼のあと、奠供(四智梵語)、散華、慶讃文、前讃 (不動)、理趣経、後讃 (仏讃)、阿弥陀大呪、
真言 (聖観音、不動、光明、南無大師遍照金剛、南無興正菩薩、南無在原大明神、南無業平朝臣、・・・)、
廻向、懺悔随喜。
そして三礼で法要が終わりました。
(法要次第は貼り出されていたのでメモした)。

理趣経を大勢で唱えられると、トリップ感を少し感じますな。
光明真言 (オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン) も
お気に入り。 ちなみに、「ベイロシャノウ」 は毘盧遮那 [びるしゃな] のこと。

法要の終わりのほうで、お堂の外でウグイスがさかんに鳴いていたのが印象的でした。




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山門に出ていた案内が手作り感あふれていて、とてもいい感じです。

左のは昨年も使われていたもの。
マスキングテープでデコレーションしています。

右のは初めて見た。
業平自作と伝わる本尊の観音様の絵がかわいい。
セーラームーンっぽい!?




青もみじが美しい境内
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黄ショウブの花はほぼ終わりでした。
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本堂の中や外で見える業平格子は業平が好んだデザインとのこと。
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記念の散華
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ご朱印の当て紙
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≪余談≫

  奈良国立博物館・なら仏像館で、たまにお出ましになるこの観音菩薩立像。

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(図録から拝借)


  図録の解説によると、もとは奈良市法蓮町の瑞景寺 [ずいけいじ] に安置されていた像で、
  もともとは不退寺の観音菩薩立像とセットだったことが数年前に判明。
  おそらく当初は中央に如来像があり、その脇侍にこれらの菩薩像があったのではないかとのこと。
  。。。ということは、奈良博のこの菩薩立像も業平が彫ったということになるのだが。。。





治承4年の南都焼き討ちで、不退寺も焼けたと伝わります。

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人目を忍んで、業平忌に参列していたらしい。


在原業平ゆかりの地を行く(29)



31.布引の滝(その2)

 業平が友人と布引の滝へ遊びに行った話については、在原業平ゆかりの地を行く(6) で紹介しました。

 布引の滝周辺に点在する滝ゆかりの歌碑 (布引三十六歌碑) をその記事で一部紹介しましたが、
 業平の歌碑の写真がなかったので、今回アップします



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ぬきみだる 人こそあるらし 白たまの まなくもちるか そでの狭きに
( 『伊勢物語』 第八十七段)




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布引の滝 (雄滝)
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展望所になっている 「狭ご路も橋」 から。
風向きによっては水しぶきがかかります。
この 「狭ご路も橋」 のかたわらに業平の歌碑がある。
( 「狭ご路も」 = さごろも ?)








ロープウェイのゴンドラから布引の滝を俯瞰
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このアングルで滝を見たら、業平はどう詠んだだろう。




 神戸市のHPに 布引三十六歌碑 の記事があります。→




在原業平ゆかりの地を行く(28)



30.自動販売機


 京都の在原業平邸跡を示す石碑 「在原業平邸址」 については、在原業平ゆかりの地を行く (25) で紹介しました。

 その石碑の近くに自動販売機があり、その横に空き缶の回収箱があります。
 その回収箱に、在原業平の歌が掲示されています。



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見ずもあらず 見もせぬ人の 恋しくは あやなく今日や ながめくらさむ
(『伊勢物語』 第九十九段)



解説がないと、意味がワカリマセン。



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※ 「ペット」 って。。。ペットボトルのことですよね?




 この歌がなぜここに選ばれたのか、勉強不足のワタクシ、よく分かりません。





在原業平ゆかりの地を行く(27)



29.葛井寺

フジイデラ、と読みます。
大阪府藤井寺市にある西国三十三所第五番札所。



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寺伝では、神亀2年(725)、聖武天皇の勅願で行基が創建。
平安時代に入ってから平城天皇の皇子・阿保 [あぼ] 親王が再興し、
親王の子・在原業平によって諸堂が造営されたといいます。
ただし、現在の諸堂の多くは、江戸時代に建てられたものだそうです。



なぜ、阿保親王や在原業平が登場するのか。

藤井寺やその周辺には、古代、渡来系の人々が多く住んでいたといいます。
葛井寺は、百済系渡来人の葛井氏の氏寺だったようです。

阿保親王の母親は葛井藤子といって、葛井氏の出身のようです。
藤子は実家の氏寺が荒れているのを嘆いて、平城天皇に再興をお願いしたのでしょうか。
お母さん、あるいはお婆ちゃんのためならと、阿保親王や在原業平が尽力したのかも知れません。

ちなみに葛井藤子の父親・葛井道依は 『続日本紀』 にその名が載っていて、
藤原仲麻呂の乱の鎮圧に功あったようです。




本尊は十一面千手千眼観世音菩薩坐像で、奈良時代に制作。 (国宝)
脱活乾漆のお像で、脇手が1000本以上あります。
観音様の縁日の毎月18日には、本尊の御開帳があります。
この日は内陣に入れるものの、近くまでは行けず、
そのうえお厨子の中にいらっしゃるので、やや見づらいです。
ただし、西国三十三所の寺院の多くではご本尊が秘仏として公開されていないので、
ご本尊を目の当たりにして拝めるのは貴重です。
(開扉は、毎月18日と、8月9日のみ)


  千手観音の写真は藤井寺市のHPで →





聖武天皇寄進と伝わる燈籠。
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ただし、本物は寺の裏庭で保存されていて、ここのある燈籠は明治時代のレプリカだそうです。








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四脚門 (国重文)
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慶長6年(1601年)、豊臣秀頼によって再興。





業平忌



奈良・不退寺で、2016年5月28日、業平忌の法要がありました。
この日は在原業平の命日で、ゆかりの不退寺では毎年業平忌が行われているそうです。
弊ブログで 「在原業平ゆかりの地を行く」 をやっていることもあって、
お礼参りも兼ねて今回初めて参列しました。
堂内に入りきれないほどの参拝者。
定刻になると、式衆が入堂。
式衆の中には海龍王寺のイケ住もおられたので、
近隣の真言律宗寺院の僧侶が出仕されたのでしょう。
法要は1時間弱だったと思います。




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多宝塔
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業平忌の5月28日のみ開扉される多宝塔は、初層のみ現存。
内部の壁板には真言八祖像が描かれていますが、かなり剥落しています。








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在原業平ゆかりの地を行く(26)



28.ゆかりの人びと

 今回は業平ゆかりの地ではなく、ゆかりの人びとの生没年表です。



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<コメント>

 ・空海さんと同じ空気を吸っていた。
 ・マレー半島で虎に襲われて亡くなったらしい高丘親王は、叔父さん。
 ・藤原高子は17歳年下。恬子内親王は23歳年下。
   内親王にとって、業平は父親(文徳天皇)より年上のオッサン。
   普通に考えると、伊勢での密会事件は後年の作り話か?
 ・藤原高子は69歳、恬子内親王は66歳で亡くなっている。
   梅干し先生こと樋口清之先生の本には、平安貴族の女性の平均寿命は27歳、
   男性の平均寿命は32歳と書いてあったと記憶。。。
   なので、この二人の女性、当時としてはかなり長命。
 ・業平は56歳、惟喬親王は54歳、天神さんは59歳で亡くなっている。
   不遇だったとはいえ、実は長生き。
 ・応天門の変は、ほぼ皆が知っていた大事件か。
 ・菅原道真と直接語り合った可能性あり?
 ・東大寺の俗別当にも就いていた藤原時平は道真を大宰府に追いやったが、
   39歳の若さで早逝した。道真の怨霊による祟りが原因と噂された。
 ・その時平は、なんと業平の孫娘を妻にしていた。
   業平の孫娘はお爺ちゃんのDNAをしっかり受け継いで、とても美人だったらしい。




在原業平ゆかりの地を行く(25)



27.邸宅跡 (京都市)


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 御池通と間之町通 [あいのまちどおり] の交差点の南東に建っているビルの脇に
 「在原業平邸址」と書かれた石碑があります。
 御所にも近いので、一等地だったのでしょう。
 どんなお屋敷で、どんな暮らしをしていたのでしょうか。




在原業平邸址







 調べたら、鴨長明が『無名抄』の中で、「業平の家」についてしたためていました。

     ・・・柱なども常にも似ず、粽柱というものにて侍りけるを、
      いつごろの人のしわざにか、後に例の柱のやうに削りなしてなむ侍りし。
      長押もみなまろに、角もなくつひなりて、まことにこだいの所と見え侍りき。
      中頃、晴明が封じたりけるとて、火にも焼けずして、その久しさありけれど、
      世の末にはかひなくて、一年の火に焼けにき。


  → 当時の一般的な柱ではなく、粽 [ちまき] 柱が使われ、
   長押 [なげし] も丸材で、とても古めかしい感じの家だった。
   陰陽師の安倍晴明が祈祷して火を封じ込めたということで、長いこと火事に遭わなかったが、
   末世のためかその効力が無くなって、先年の火事で焼けてしまった。



 業平が住んでいたころからずいぶん時が経っているとはいえ、興味深い記録ですね。




在原業平ゆかりの地を行く(24)



26.小野 (京都市)


 惟喬 [これたか] 親王は29歳で出家して、25年もの間、小野の里に隠棲しました。
 この小野の場所は諸説ありますが、京都の大原あたりを昔は小野と呼んだそうで、
 一般的にはここを指すようです。
 親王のものと伝わる墓もここにあります。




      睦月に、をがみ奉らむとて、小野にまうでたるに、
      比叡の山のふもとなれば、雪いと高し。
                       (『伊勢物語』第83段から)

  → 業平は出家した惟喬親王にお目にかかろうと、正月に小野へ出かけた。
   小野の里は比叡山の麓なので、雪が高く積もっていた。




 高く積もった雪を踏み分けて、ようやく親王の庵室にたどり着いて、
 対面したという話なのですが、わざわざこのような状況設定にしたのは、
 親王の寂しさや無念さを強調するためだったのでしょうか。
 もっと語り合いたかったのに、都で用事があるからといって、
 夕方、業平は泣く泣く小野の里をあとにしたのでした。





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左は惟喬親王墓への階段、右は親王を祀る小野御霊神社。
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風薫る大原の里 (惟喬親王墓の近くで)
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(2013.5.5撮影)





惟喬親王墓







<余談>

 在原業平が伊勢で密会したという斎宮の恬子 [てんし] 内親王は、惟喬親王の妹。
 この兄妹の父親は文徳天皇、母親は紀静子。
 紀静子は、業平の妻の父親(紀有常)の妹。

 つまり、業平の妻と惟喬親王/恬子内親王は、いとこの関係です。




在原業平ゆかりの地を行く(23)



25.渚院 (枚方市)

      むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。
      山崎のあなたに、水無瀬といふ所に、宮ありけり。
      年ごとの桜の花ざかりには、その宮へなむおはしましける。
      その時、右の馬の頭なりける人を、常に率ておはしましけり。
      ・・・・
      狩はねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。
      今狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。
      その木のもとにおりゐて、枝を折りて、かざしにさして、
      上、中、下、みな歌よみけり。
                       (『伊勢物語』第82段から)

→ 惟喬親王 [これたか しんのう] は毎年桜の花の時期に業平らを連れて、
  水無瀬 [みなせ] の離宮へお出かけになったが、
  鷹狩りはそこそこにして、花見宴会モードに突入。
  狩り場の交野 [かたの] にある「渚の別荘」の桜がことのほか素晴らしいので、
  一行はその木のもとで酒を飲み、折った枝を髪飾りにして
  身分の上下を問わず、みんなで歌を詠んだ。





 惟喬親王の別荘「渚の院」の跡は、現在の枚方市 [ひらかたし] の
 渚元町 [なぎさもとまち] に現存しています。
 渚元町あたりは、昔は渚村と言ったそうです。
 淀川のほとりに位置していたからでしょうか。
 京阪・御殿山駅から、住宅地の狭い道を歩くこと約10分。
 現状は市立保育園の一角にあって、鍵のかかった柵で囲われています。
 中に入るには、保育園で鍵を借りて、自分で開錠しなければなりません。



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世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし



 在原業平が詠んだこの歌、まさにここ渚の院で詠まれたものなのです。
 渚の院はのちに荒廃しましたが、寺院として復興されたそうです。
 明治になって廃寺となり、今はかろうじて残された狭い跡地に鐘楼と石碑を残すのみ。
 跡地にある桜は後年に植えられたものでしょうが、
 残念なことに、今回訪問した時期は遅かったようで、すでに花は散っていました。
 でもよく見ると、数輪がかろうじて残っていました。
 ワタクシの訪問を待っていたのか、いじらしいなぁ。


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ほぼ葉桜 (中央の桜は「淡墨桜」、と記された札あり)
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 見学を終えたら、自分で施錠して鍵を保育園に返します。
 鍵を借りるには保育園に職員さんがいることが前提なので、訪問する際には要注意です。
 保育園で鍵を借りる際、希望すれば『渚院』のパンフレット(枚方市教育委員会編)を
 分けていただけます(100円)。


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 渚の院跡の南側には、禁野 [きんや] と呼ばれる地名があります。
 交野の渚の院の周辺は交野ヶ原と呼ばれる狩場でしたが、
 一般人の狩りが禁じられていたエリアは禁野と呼ばれたそうで、
 今でもその名が残っているわけです。




 『伊勢物語』第82段の続き。。。

   → 酔っ払い連中は、河岸 [かし] を変えて飲もうと、渚の院から移動。
    着いたところは、「天の河」。
    そこで夜が明けるまで、七夕に絡めて歌を詠んだり、飲んだり。

 この「天の河」は、現在、枚方市を流れて淀川に注ぐ天野川のこと。
 「天川」と書かれている古文書もあるようです。
 奈良県の天川村に在原業平のものとされる墓があるのは
 たまたま同じ文字が使われていたことが影響したのかも知れません。(妄想)





渚院跡





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プロフィール

なむさいじょう

Author:なむさいじょう



阪神エリア在住のおっさん。
時間を見つけては奈良めぐり。

※2013年までの過去記事は本サイトへインポート後、一部を除いてリンクの更新等を行なっておりませんので見苦しい部分があります。ご了承ください。
※過去記事へのコメントも歓迎。

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