瓜破の道昭


前回の記事で、光源氏っぽい平維盛を祀る瓜破 [うりわり] 天神社の前身が道昭 [どうしょう] によって創立されたとする由緒を紹介しました。
ということで、今回は道昭の話。


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瓜破天神社
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道昭は飛鳥時代の僧侶(法相宗)です。
舒明天皇元年(629)生、文武天皇4年(700)3月10日没。
河内国丹比郡 [たじひのこおり] の人で、出家前の姓は船連 [ふねのむらじ]。
遣唐使で唐に渡り、玄奘三蔵に師事。
帰国後、法相宗を広めました。
法興寺(後の元興寺)に禅院を建て、弟子たちを育てた。
各地で行ったとされる土木事業は、弟子の行基に引き継がれたと考えられます。


河内国丹比郡はざっくりこのあたりの図
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現在の奈良県明日香村栗原で、遺言により火葬されたと 『続日本紀』 に記録されています。
日本で最初の火葬とされています。
『続日本紀』 には数十人の卒伝が書かれていますが、
その中でも道昭のものはかなりの字数を使って、多くのエピソードを紹介しています。
弟子が道昭の便器に穴をあけた話。
唐から日本へ帰るときに、玄奘三蔵からもらった鍋の不思議な話。
上記の火葬が終わったあと、親族と弟子が争って道昭の骨を拾おうとしたとき、
にわかにつむじ風が起きて、灰や骨が吹き上げられてどこかへ行ってしまった話、など。
道昭の弟子か信奉者が師の偉大さを後世に伝えるために、奇譚を追記したのではないか。


瓜破天神社の由緒書によると、道昭は大化年間(645-649)に瓜破の地に住んでいたそうで、
行法中に天神像が現れたので、西瓜を割って供えたことからこの地が瓜破と呼ばれるようになったとしています。
(その当時、スイカがあったのでしょうか?)
菅原道真が天神として崇められるのはもっと後の時代なので、現れた天神は文字どおりの天の神なのでしょう。
一方、このあたりには中高野街道が南北に通じていて、
弘法大師空海が高野山と都を往復する際に土地の人が瓜を割って勧めたことから
瓜破という地名になったとも伝わっています。


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道昭ゆかりの地が、もう一か所近くにあります。

敬正寺 [きょうしょうじ]
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道昭がこの地に創建したという永楽寺 [えいらくじ] の塔頭のうち、唯一残ったのがこの敬正寺だそうです。
敬正寺の境内には永楽寺の本尊と伝わる五智如来のうち、2体の石仏(大日如来と阿弥陀如来)が安置されています。
旅帰りの道昭が村人から割った瓜を差し出されて食べたところ、たちまち疲れが癒えたので、
感謝して永楽寺を建て、この地を瓜破と名付けたというのが敬正寺に伝わる瓜破地名由来。


格子戸越しに石仏が2体201806173326A.jpg
近寄ると、犬に吠えられる。




大日如来
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阿弥陀如来
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最寄駅の大阪メトロ・喜連瓜破 [きれ・うりわり] 駅を出ると、東西に延びる道に出ます。
この道は長居公園通りで、住吉の津と大和を結ぶ古代の道路 「磯歯津路」 [しはつみち] だったと伝わります。
古代、住吉の津に上陸した外国使節団は、磯歯津路を通って大和に入ったようです。
磯歯津路は 『日本書紀』 の雄略天皇記や、『万葉集』 にも登場しています。


長居公園通り
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東方には信貴山が見えます。


雄略天皇の時代、来日した機織り姫の呉羽、綾羽も信貴山を見ながら大和に向けてこの道を歩んだのかも知れません。



水無月2018


毎年6月になると、この時期限定の 「水無月」 を頂くのを楽しみにしています。

奈良の和菓子屋・樫舎 [かしや] で提供される水無月は、ちょっとぜいたくです。
土台部分はういろうではなく吉野の極上本葛で作られていて、触感が滑らかで甘さも控えめ。
上に乗っているのは丹波大納言の鹿の子で、一週間ほど氷砂糖の蜜に漬けられたもの。



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古民家を改装した店内にはご主人の好みでJAZZメインの音楽が流れていますが、
以前より音量が控えめになっているのは奥様から小言があったから?



ネコちゃんに叱られる!



「ちょいとそこのオッサン。 挨拶なしで通り過ぎようっての?」
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「はぁ?」
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「詫びにマッサージしな! 最近肩のあたりが凝っているんだよな~」
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「あ゛~、そこそこ」
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「う~ん!」 (悶絶)
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「あー、気持ちよかった」
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「今年2018年秋、中金堂の落慶だよー」
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≪追伸≫

 興福寺中金堂落慶の慶讃行事で、仏友2人(MJとIS) が来るみたいです。
  https://twitter.com/hajyoubou/status/1006893264857731073



tag : 興福寺

全興寺


大阪市平野区にある全興寺 [せんこうじ]。
太平洋戦争で空襲の被害に遭わなかったこの一帯は、古い町並みが残っています。


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さっそくウワサの地獄堂へ。

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「蜘蛛の糸」 と称する紐には多くのおみくじが。






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お堂へ入る前に、極楽度・地獄度チェック。

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こういう場では正直に答えるべき。



 ・絶えず不平不満が多い → Yes
 ・やる気がなく無責任 → Yes
 ・時間も金も無駄遣いする → Yes
 ・陰口悪口が好きで仲良くできない → Yes
 ・暴飲暴食、自分を粗末にする → Yes
 ・すぐに腹を立て、人に迷惑をかける → Yes
 ・人に頼りすぎ、すぐにくじける → Yes
 ・利己的気ままで自分勝手 → Yes
 ・欲が深く、自惚れが強い → Yes
 ・先々の迷いや不安が多い → Yes



エンマ大王のおさばき結果、
(うすうす予感はしていたが) 「地獄行き決定!」 のランプが華々しく点灯!

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堂内に入ると、奪衣婆が待ち構えておる!

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エンマ大王に手を合わせてドラを鳴らすと地獄が現れ、エンマ大王があれこれ語り出し、
浄玻璃の鏡に生前の悪行が映し出される。
地獄にもいろいろあるけど、ワタクシの場合、刀葉林地獄行きの可能性が高いな。


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でも、一番大切なことは、

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お寺さんの言いたいことが地獄堂に掲示されていました。

  お父さん お母さんへ
  お寺からのおねがい!
  この地獄堂は子どもたちに 「悪いことをしないこと」 と
  「自分のいのちを大切にすること」 を教えるために開いたものです。
  お父さん、お母さん、むやみに子どもに恐怖心を与えて
  言うことを聞かせるための材料にしないでください。
  こわいエンマさまの姿は、本来はお地蔵さまのやさしい慈悲の心のあらわれなのです。
  これを機会に子どもたちと 「いのちの大切さ」 について
  もう一度話しあってみてください。


※ むしろ幼い子どもを持つ最近の親に教えたいくらいですな。



おみくじ 「エンマ大王の地獄ミクジィ」
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地獄の釜を模した(?)釜めしの釜の中のおみくじは、どれを引いても 「凶」。
これ以上悪くなることはなく、あとは運気上昇するのみ。
ちなみにワタクシが引いたのは阿鼻地獄行きの凶で、自分に見合った道を進めと諭されました。
願い事は6回叶うとも(六道のこと?)



さまざまな話題を提供しているお寺さんですが、
とにかく参拝に来てもらって命の大切さを胸に刻んで欲しいと言われているのだと思います。



ほとけのくに
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地下にはステンドグラスの曼陀羅があって、その上で瞑想できます。




地下への階段の手すりには、四国八十八ヶ所霊場各寺院の 「お砂」 が収められています。
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ご住職にご朱印をいただきました。
全興寺は高野山真言宗とのことなので、数日前に高野山円通律寺へお参りに行った話をし、
朱印帳の1ページ前にある円通律寺のご朱印をお見せしたところ
ご住職はとても驚かれて、円通律寺で修行されたときの興味深いお話を伺うことができました。


本堂
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本尊は薬師如来(秘仏)。



ほかにもたくさん楽しめる設備がありますが、キリがないのでこのへんで。






≪余談1≫

 全興寺から程近いところに、坂上田村麻呂の二男・坂上広野の屋敷跡があります。
 「平野・ひらの」という地名は、「広野・ひろの」から来ている説があります。

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≪余談2≫

 平野にある融通念佛宗の総本山・大念佛寺の境内にある龍王殿。

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祀られているのは、縛嚕拏天 [バロダテン]。


。。。って、どなた?




中川寺


奈良市中ノ川町の北部に、かつて中川寺という密教寺院がありました。
平安時代の天永三年(1112)ごろ、実範という僧侶が建立に着手したらしい。
本寺の成身院のほかに、弥勒院、清浄院、地蔵院、瓦坊、東北院、仏眼院、十輪院、薬師院、三蔵坊などの子院で構成される大寺院だったようですが、江戸初期には成身院、塔、鐘楼が残る程度に衰微し、明治初期には廃寺となった。
その跡地は現在、藪や雑木林ですっかり覆われてしまっていて、往時の面影はまったくありませんが、開山の実範上人の墓とされる五輪塔が残されています。




実範 [じっぱん・しっぱん・じつはん・じちはん]
  生年:不詳、没年:天養元年(1144) 9月10日。
  平安後期の真言宗、律宗の僧。
  奈良の中川寺(現廃寺)成身院の開祖で、唐招提寺の復興者。
  通称・中川少将、少将上人。
  出身は京都。父は参議・藤原顕実。
  興福寺に入寺して法相を学び、醍醐寺・厳覚や高野山・教真より密教、横川の明賢より天台を修めた。
  早い時期から光明山寺などの密教、山岳寺院との関係を持ち、
  興福寺の別所的性格を持っていた中川寺に隠遁後も、
  忍辱山円成寺、浄瑠璃寺、岩船寺などの周辺の山岳寺院にかかわり、
  祈祷者・修験者的要素を強めていった。
  一方、戒律にも通じ、藤原忠実ならびに関係者の出家に際して戒師を勤めている。
  『元亨釈書』 実範伝では、実範は唐招提寺で牛を使って耕作していた禿丁の人より四分戒を受けた、
  というエピソードが述べられ、唐招提寺の荒廃ぶりと戒律復興に赴く実範の姿が象徴化されている。
  著書に、『東大寺戒壇院受戒式』、『病中修行記』 などがある。
   (『朝日日本歴史人物事典』から)



オールマイティなお坊さんですね。
荒廃していた唐招提寺を復興したことは、あまり知られていないと思います。
形骸化していた受戒作法を改めるため 『東大寺戒壇院受戒式』 を定めたことから、南都戒律中興の祖とされています。
晩年は浄土宗に帰依し、中川寺から光明山寺 [こうみょうせんじ] に移ってそこで亡くなったようです。



円成寺
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唐招提寺
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東大寺戒壇院戒壇堂







光明山寺跡 (京都府木津川市)
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中川寺は高野山の聲明の故郷でもあります。
その昔、高野山に正統な聲明が伝わっていないことを残念に思った高野山三寶院の住職が中川寺で唱えられていた聲明を受け継いで持ち帰り、高野山の声明 (南山進流) として現在に伝わっています。

高野山 三寶院
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先日、実範上人の御廟塔へお参りに。
最寄りのバス停は 「中の川」。

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バス停奥のお地蔵さんは元は成身院にあったらしい。
永正十四年(1517) と刻まれています。







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実範上人は興福寺の僧だったことから、現在は興福寺が御廟塔を管理しているそうです。
命日の9月10日には、興福寺、般若寺、浄瑠璃寺、岩船寺などゆかりの寺院から僧侶が出仕して法要が営まれているそうです。






廃寺となった中川寺の現存する主な遺物には、以下のものがあります。


● 毘沙門天立像 (国重要文化財)
 応保二年(1162)作、旧中川寺十輪院持仏堂所在、現在は東京国立博物館所蔵。
 2017年、東京国立博物館で開催された 「運慶展」 にお出ましされました。
 現存する玉眼の仏像としては、3番目に古い作例。
 (最古は仁平元年の奈良・長岳寺の阿弥陀三尊像、次いで久寿二年の京都・北向山不動院の不動明王坐像)
    写真はこちら →

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(図録から拝借)





● 木造薬師如来坐像
 旧中川寺成身院所在、現在は木津川市西念寺所蔵。

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● 梵鐘 (国重要文化財)
 旧中川寺成身院所在、現在は神戸市徳照寺所蔵。
 徳照寺境内に見える梵鐘は昭和五十三年製のレプリカで、実物は収蔵庫に入っています。
 銘文は以下のとおり。

    成身院鐘大治四年
    四月七日鋳造匠多
    治比頼友等也唯願
    以茲善根資功法俗
    聞声人畜乃至群生
    共成仏道矣
    既経卅六年破損仍
    長寛二年歳次甲申七月
    二日乙酉有縁合力以
    尊智聖人鋳直之

 銘文によると、大和国成身院の鐘で、大治四年(1129)4月7日、多治比頼友らによって鋳造され、
 その36年後、破損したので長寛二年(1164)7月2日、僧尊智によって改鋳されたことが分かります。
 江戸時代天保年間、徳照寺の本堂造営の際、大阪でこの梵鐘を購入したと伝わっています。
 購入後、この梵鐘は大阪の河口から船に積まれて運ばれたそうですが、
 当時、梵鐘を船に積むと龍神の祟りで船が沈むという俗信があったため、
 その難を避けるために婦人の赤い湯巻に包んで運んだので無事だったとの言い伝えがある、
 と徳照寺さんで頂いたしおりに書いてありました。
 特徴的なのは、鐘の内面に梵字の銘 (知炬如来破地獄真言と如意輪観音真言) と
 五輪塔が鋳出されていることです。


徳照寺 (神戸市中央区)
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阪神淡路大震災で鐘楼が倒壊したため、現状はこのような姿になっているそうです。
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鐘の内側
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梵字と五輪塔の絵が見えます。





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境内にある説明版の後ろに梵鐘の収蔵庫がある。
収蔵庫にあったおかげで、本物の梵鐘は震災による被害を免れたそうです。




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プロフィール

なむさいじょう

Author:なむさいじょう



阪神エリア在住のおっさん。
時間を見つけては奈良めぐり。

※2013年までの過去記事は本サイトへインポート後、一部を除いてリンクの更新等を行なっておりませんので見苦しい部分があります。ご了承ください。
※過去記事へのコメントも歓迎。

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