平重衡を追う(62)~ 大仏殿の中の重衡



※ 以前にアップした記事の増補版です。



東大寺大仏殿に入って左の柱に扁額がかかっています。
数年前にこの柱の横に献灯台用の大きなケースが置かれ、扁額が見えにくくなってしまいました。


以前の様子
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最近の様子
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以前、扁額を撮影し、拡大して一文字ずつ拾ってみたのがこれ。
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(誤字あると思う)




扁額を奉納したのは、薩摩 (大隅と日向も) のお殿様・島津吉貴。
日付けが宝永6年(1709) 3月14日となっているので、
江戸時代の大勧進・公慶上人らの尽力で再建なった大仏殿の落慶供養 (3月21日~4月8日) の直前です。
落慶供養に合わせて、曼荼羅用の檀(?)などを奉納したことが記されています。
今、奉納品はどこにあるのでしょうか?


文章の前半は大仏殿創建とその後の再建の経緯が書かれていて、
聖武天皇、源頼朝 (右幕下)、重源上人、公慶上人などの歴史上のビッグネームが並んでいます。
焼き討ちした 平重衡 もちゃんと記されていますよ。


右から2行目に、平重衡が治承4年12月28日に大仏殿を燃やしたと書かれています。
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額縁には島津家の紋がありますね。



島津の家伝では、島津氏の祖である島津忠久は頼朝が側室に産ませた子としているため、
扁額のお殿様 (島津吉貴) は自らを頼朝の後裔(22代)と称しているのでしょうね。 (史実かどうかは???)

再建の大仏殿の屋根を支える虹梁には、日向国の白鳥神社の境内にあったアカマツの大木が使われています。
切り倒された木は宝永元年(1704) 1月に白鳥神社を出発。
船に乗せるために鹿児島湾まで運ぶ作業には、島津吉貴の指示があったようです。
東大寺に着いたのは同年9月でした。



大仏の再鋳と大仏殿の再建に心血を注いだ公慶上人。
宝永6年の大仏殿落慶供養には、その姿はありませんでした。
その4年前に亡くなっていたからです。
過労死だったとも言われています。
さぞかし無念だったでしょう。

公慶堂の公慶上人像は、大仏殿に向けて安置されています。



公慶上人の墓
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公慶上人の後を引き継いだ公盛上人の墓
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いずれも五劫院の墓地にて




平重衡を追う(61)~ 大納言典侍の願い



平重衡の正室 (大納言典侍) は、南都焼き討ちで溶け崩れた大仏を再び鋳造するための溶鉱炉に
夫が所有する銀・銅製品を寄進したいと、東大寺大勧進・俊乗房重源さんに依頼したところ、重源さんはこれを許した、
という話は以前の弊記事:
    ・ 「平重衡を追う(53)~ 平家に寄り添う重源」
    ・ 「平重衡を追う(58)~ 重衡忌2017」
などで紹介しました。

この話の出どころは鎌倉時代の記録書 『東大寺続要録』 の 造佛篇 で、実際の文章は以下のとおり。


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    「上人」 とは、俊乗房重源さんのこと。


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ただ、後半の部分に、

    溶鉱炉に重衡の金属製品を加えようとしたところ、炉が破裂し、その金属製品は受け入れられなかった。
    あまりにも重い罪のため、大仏さまはまだお許しになっていないためか。

というような意味のことが記されています。

溶鉱炉の破裂事故が起きたのは、おそらく事実でしょう。
炉に構造的な欠陥があったか、炉の使い方に問題があったのだと思います。
ただ、焼き討ちの悲劇を知る人々に対して、事故原因を工事作業側のミスと説明するより、
大仏さまの怒りがまだ収まっていないためとしたほうが説得力ありますから、上記のような記述になったのでしょう。

重衡の金属製品は受け入れられなかったと記されていますが、
貴重な金属材料であり、再鋳に必要ですから、捨てられることはなかったでしょう。
実際には新たな炉に加えられて溶かされ、大仏さまの一部になったのではないかと考えます。



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平重衡を追う(60)~ 南都焼き討ちの痕跡



東大寺の東塔跡の発掘で、治承4年(1180)の平重衡の南都焼き討ちにより東塔が焼け落ちたとみられる痕跡が見つかったと、2016年10月に報道がありました。
  その当時の資料 → (PDF, 1.71 MB)

現場説明会には行けませんでしたが、同11月にたまたま現場近くを通ったとき、その痕跡を見ることができました。



東大寺東塔院跡発掘現場 (2016年11月)
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基壇の階段の踏み石 (右の矢印) には焼け焦げた跡が残っていて、倒れかかった石材 (左の矢印) が出土するなど、
塔が炎上して倒壊した様子が伝わります。
南都焼き討ちの痕跡を実際に見たのは、これが初めてでした。

ん?。。。木の陰からこっそり発掘の様子をうかがっている人が! 犯行現場に戻ってくるとよく言われますが。。。。




で、2017年8月5日の現場の様子。

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現在、基壇は埋め戻されています。

実はこの日、東大寺で 「東大寺東塔院跡の発掘調査2 -天平の塔基壇- 」 と題する講演会があり、聴講しました。
内容は、
   1.東大寺東塔院とは?
   2.平成27年度の調査で判明していたことと問題点
   3.平成28年度の調査で判明したこと
   4.今後の調査と課題
でした。
また、出土品から分かる奈良時代の塔の屋根の一部も紹介され、配布資料にも写真が載せてありました。
とても興味深い内容が盛りだくさんでしたが、ここで詳しく紹介できませんのであしからず。
「4.今後の調査と課題」 は、東塔を囲む回廊と四方に設けられたであろう門の実態解明、だそうで、
新たな解明が進むことを期待します。

素人にも分かり易い譬えを使っての説明だったり、現場での苦労話があったりと、とても好感の持てる講演でした。


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 ※ 西塔跡も一緒に発掘したらいろいろと分かるはずなのに、と素人は簡単に考えますが、簡単には行かないのでしょうね。



平重衡を追う(59)~ 文使い地蔵



毎年7月24日、東大寺塔頭・知足院で地蔵会の法要があります。
東大寺の塔頭の中で、一般者が参列できるのは知足院の地蔵会だけと思います。
この日だけ知足院本堂が開けられ、本尊のお地蔵さんも特別に開扉されます。
幸運なことに、今年2017年も法要に参列できました。

以下、昨年2016年の知足院地蔵会の記事を一部編集して再掲します。


知足院本堂での法要は、午前8時に始まります。
東大寺一山の僧侶が出仕されるそうですが、今回24名でした。
唱えられるお経は、「九条錫杖」 と 「理趣三昧」。
「九条錫杖」 は、二月堂修二会でも耳にします。フシや速度が少し違いますが。
「理趣三昧」 では、導師を除いた一同が理趣経を唱えながら堂内を行道します。
これだけの人数の僧侶がお堂の中で読経するのは、見ごたえ、聞きごたえ十分です。

法要は1時間あまりで終了。

法要後、参拝者は堂内の厨子に安置されている本尊・地蔵菩薩立像を間近で拝むことができます。
截金も美しい、凛としたお地蔵さんです。
(参拝者の状況を見ながら10時半ごろには閉まるようなので、堂内拝観はハードルが高い)。


このお地蔵さんには、伝説があります。

  平重衡による南都焼き討ちに遭った東大寺を大勧進・俊乗房重源さんとともに再興するため、
  造東大寺長官となった藤原行隆は、再興事業半ばで死去。
  今でいう過労死だったようです。
  嘆き悲しんだ幼い娘は、亡くなった父親へ手紙を届けて欲しいと
  父親が信仰していたお地蔵さまに毎日泣きながらお祈りしました。
  すると7日目の朝、お地蔵さまの手に娘の手紙とは別の手紙が結び付けられていました。
  その手紙は亡き父親の筆跡による返事で、今、私は兜率天 [とそつてん] にいるので嘆き悲しむことはない、
  おまえは大仏さまにいつもお祈りしなさい、などと書いてあって娘は驚くとともに大喜びした、
  という伝説。
  このお地蔵さまが、現在、東大寺塔頭知足院におわす 文使い地蔵 [ふみづかいじぞう] さんです。


歴史に 「もし」 は禁句ですが、もし重衡が焼き討ちしなければ、藤原行隆の過労死はなかったでしょう。
でも、「文使い地蔵」 もなかったということになります。
歴史の皮肉ですね。
少し強引ですが、平重衡ゆかりのお地蔵さまとも言えるかも知れません。

なお、知足院地蔵会は法要だけです。
子供向けのイベントとか、お菓子やおもちゃなどの授与はありませんので、
そういったことを期待して行ってはいけません。






≪余談1≫

  奈良国立博物館で開催中の 「源信」 展。 (期間:2017年7月15日 ~ 9月3日)
  8月1日から伝説の 「文使い地蔵」 さん、お出ましになりますよ。
  寺外展示は、あべのハルカス美術館で2014年に開催された 「東大寺」 展以来でしょうか?



≪余談2≫

  東大寺再興に尽力した造東大寺長官・藤原行隆は、二月堂修二会 (お水取り) の過去帳で、
  “造寺長官行隆左大弁” [ぞーじのちょーがん ゆきたかの さだいべん]
  と読み上げられていますよ。
  ちなみに、行隆から数えて3人目は後白河法皇、18人目は源頼朝が登場します。
  なお、藤原行隆は 『平家物語』 の 「行隆之沙汰」 の段に登場する人で、平清盛のおかげで朝廷に復帰できた。



≪余談3≫

  知足院地蔵会法要後、ご朱印を所望されている方がいらっしゃいましたが、
  知足院さんは普段も受け付けておられません。
  普段もお堂は閉まっていて、堂内参拝はできません。





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平重衡を追う(58)~ 重衡忌2017



「ゆーびんデ~ス」
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ということで、今年もお参りに行ってきました。


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「いつもお世話になっています」







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ご住職から焼香の作法についてお話がありました。
そして今回の焼香は年齢順としましょう、とワタクシが一番手に指名されてしまいました。(笑)


法要後、参列者は自然と “しげひラー” の集いの様相となり、各自さまざまな思いを語られていました。
ご住職をはじめ参列の方々、ご縁を頂き、ありがとうございました。





≪余談≫


平重衡の妻の大納言典侍の件の補足。
東大寺大勧進・俊乗房重源さんは大納言典侍の願いに応じて、重衡が焼き討ちで溶かしてしまった大仏を再鋳造するための大炉に、供養のため重衡が所蔵していた銀・銅製品を奉加することを許しました。 (『東大寺続要録』)
大納言典侍は、南都焼き討ちの悲惨な結果を聞いて胸を痛め、このようなお願いを重源さんにしたのだと思います。
いまの大仏さまのどこかに、重衡の所蔵品が溶け込んでいる可能性があります。
大仏さまを拝むことは、南都焼き討ちの犠牲者や重衡の供養にもなると思います。




江戸時代の名所ガイドブック 『拾遺都名所図会』 の件の補足。

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右から、「御霊社」、「哀堂」、「首洗池」、「ならず柿」と書かれています。
“重衡首洗池” は江戸時代も名所だったようですね。
現在は場所が移って、しょぼい水溜まりみたいですけど。
安福寺ではなく哀堂になっていますね。
御霊社は安福寺さんの東隣にある御霊神社のこと。



夏草ボーボーでよく分からない状態の重衡首洗池とならず柿 (重衡忌法要前に立ち寄り)
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平重衡を追う(57)~ 敵の敵・横川覚範



横川覚範の供養塔と首塚
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吉野の上千本に、横川覚範 [よかわのかくはん] の供養塔と首塚があります。

以下、説明板から抜粋・要約:

  文治元年 (1185) 12月、兄の頼朝の怒りに触れた源義経が、家来 (武蔵坊弁慶、佐藤忠信、伊勢の三郎、
  常陸房 [ひたちぼう] 海尊、鷲尾の七郎、片岡の八郎) と、静御前を連れて雪の吉野山に入り、
  吉水院 (吉水神社) に身を隠していた。
  ところが、あてにしていた金峯山寺の僧兵が敵になったため、吉野水分神社まで逃げた。
  僧兵の中でも屈強の横川覚範が追ってきたので、佐藤忠信が義経の身代わりとなって戦い、
  花矢倉から矢を浴びせて覚範を討ち取り、そのすきに義経一行を落ち延びさせた。
  討たれた覚範の首が埋められたのがこの場所と伝わる。


「横川」 なので、比叡山の僧だったのでしょうね。
そういえば、武蔵坊弁慶も比叡山にいたな。


横川覚範首塚から少し登ったところにある花矢倉の展望台
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(現状、立ち入り禁止)

しかし、大量の矢はどうやって手に入れたのか?
















今回の記事はあまり平重衡に関係のない余談っぽいのですが、さらに余談です。



勝手神社
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 中千本バス停の横にある勝手神社は、2001年に放火により焼失してしまいました。
 立ち入り禁止だった境内は、最近になって入れるようになりました。
 静御前が追っ手に捕まったときに、この境内で舞を舞ったと伝わります。








白拍子の舞
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 静御前の母・礒野禅尼は今の大和高田市が出身地と言われ、吉野で捕まった娘とともに鎌倉へ送られました。
 静は鎌倉で義経の子を産みましたが、男子であったため頼朝の命により赤子は由比ヶ浜で殺されました。
 静御前と礒野禅尼は釈放され京都へ戻ったとされますが、その後の消息は不明のようです。
 郷里の大和高田市に戻ったとも言われています。
 このため大和高田市には、静御前や礒野禅尼の伝説が残っています。
 写真は奈良大立山まつり2017で披露された 「白拍子の舞」 で、大和高田市の出し物。
 もちろん静御前をイメージしていますね。




 比叡山・横川ゆかりの僧侶といえば、慈慧大師良源 (元三大師)、恵心僧都源信が有名。
 良源はおみくじを始めた人。
 源信は 『往生要集』 を著した人。奈良博の源信展、楽しみです。


平重衡を追う(56)~ 平重衡墓所参り(高野山)




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(なむ) 「 今年も来ましたよ、シゲさーん!! 」
(シゲ) 「 よー来た。よー来た 」
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(なむ) 「 いつもお世話になっています。 あれっ? いつもとお姿が違うような。。。 」
(シゲ) 「 おお、よく気が付いた。ここは墓と言っても首塚なのでな、ここまでしか姿を出せんのだよ 」





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今年2017年は高野山でも花暦が遅れていて、5月3日なのにまだシダレザクラが頑張っていました。




南都焼き討ちの日






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「 今年もやって来ました、12月28日。
“ 南都燈火会 ”

836年前のあの日は、きのうのように強い風がビュービュー吹いていました。
そのせいか、思いのほかド派手に燃えました。

産経新聞の記事にも、ちゃんと載っていましたよ。→





東大寺東塔院跡発掘調査中

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2017年6月頃に発掘調査の報告会(第2弾)が行われるようです。




「おおっ、聴講予定を入れなきゃ。メモ、メモ。」 (平重衡)




平重衡を追う(55)~ 安福寺 2016秋



京都府木津川市で行われている 「2016 秋の社寺秘宝・秘仏特別開扉」 →

今回の参拝は、安福寺、御霊神社、西念寺※、旧燈明寺※、西明寺※、高田寺※ 。(※:初参拝)
真っ先に訪れた安福寺で、ご住職はワタクシが今年の重衡忌にも参拝していたことを覚えておられた。

ということまで前回の記事に挙げました。



【安福寺】

昨年の特別開扉の場合と3点の違いがありました。

(1)堂内撮影OK
(2)庚申堂の青面金剛明王像開扉
(3)ご朱印授与

観光寺院ではありませんので、いずれも特別開扉期間のみのご対応かと思われます。



門の向こうに屋根が見えるのが 「哀堂」 [あわんどう] と呼ばれる本堂。
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本尊の阿弥陀如来さんは、近くを流れる木津川で平重衡が処刑されたときの引導仏と伝わります。
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処刑直前に重衡は仏像を拝みながら斬られたいと希望し、
重衡に仕えていた木工右馬允知時が近所から借り受けてきた仏像がこの阿弥陀如来像と伝わります。
『平家物語』 の 「重衡被斬」 で登場する仏像です。








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処刑直前の重衡の姿。江戸時代に描かれたもの。
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阿弥陀さんと2ショットで。








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寺伝ではこの十三重塔は重衡の墓で、首から下が埋葬されているという。


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なお、「ネットで検索すると、安福寺は重衡の菩提を弔うために建立されたと書かれた記事がありますが、
それは誤解で、創建はもっと古いです」、とご住職は強調しておられました。
寺伝では安福寺の創建は長保三年(1001)で、開基は恵心僧都。
重衡が処刑されたのは、1185年6月23日。





庚申堂の青面庚申金剛明王像は今回初めて拝見しました。

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三猿がかわいい。


庚申堂の創建は大宝四年(704) 2月15日、開基は摂津国天王寺正善院毫範僧都と伝わります。






ご朱印は書置きで、中央に「哀堂」の墨書、押印は「平重衡卿史蹟」、キリーク、「山城國安福寺哀堂」です。
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重衡ゆかりの 「成らず柿」 と、重衡の首洗い池
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安福寺の北西方向にあります。池というより水たまりです。


成らず柿の様子を見に近くまで行くと、家の前を掃除していたおばあさんに声をかけられ、成らず柿はそこだと案内してもらいました。
90歳だというおばあさんは、長年、成らず柿を訪ねてきた人に声をかけてきたのでしょうね。
重衡に親しみを抱いているようでした。



平重衡を追う(54)~ 安徳天皇陵墓 (能勢町)



大阪府能勢町にも 「安徳天皇陵墓」 があります。

能勢町の野間地区は周囲を低い山に囲まれた盆地で、
地区西側の野間出野にある来見山 [くるみやま] の山頂にご陵墓があります。
山といっても、ご覧のとおり丘のような小山です。



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同心円状に石が並べてあり、その中心に墓石がある。
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登り口を見つけるのに苦労しました。
何日も人が入らなかったらしく、蜘蛛の巣を何度も払いのけながら荒れ気味の山道を行きました。
(山を下りてよく見ると、全身蜘蛛の巣だらけ)






来見山の南側には、岩崎八幡社があります。
祭神は、安徳天皇。

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この社殿の下は経塚だったようで、養和元年(1181)の銘がある経筒、鏡などが出土しているとのこと。
(現在は東京国立博物館で保管されているとのこと)









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登り口の門をくぐって階段を上った先にある小さな社殿の脇には、
「安徳天皇 御霊蹟地 岩崎八幡社」 と表書きのあるチラシが置いてあり、
以下のようなことが書かれていました。


(抜粋・要約)
     寿永四年(1185) 3月24日、壇ノ浦の戦いで平家は滅びたが、二位の尼の計らいで安徳天皇はご潜幸になった。
     従者4名に付き添われて石見、伯耆、但馬の国を経て、その年の6月15日、ここ摂津国能勢の野間郷に入られた。
     岩崎八幡社は安徳天皇が潜幸されたところである。
     しかし翌年の文治二年(1186) 5月17日朝、この地で崩御された。
     ご遺体は日ごろお出かけになっていた来見山に埋葬された。云々。
   以上のようなことが、文化十四年(1817)にこの村の辻勘兵衛宅の屋根葺き替えの際、
   棟木に吊るされ竹筒から発見された健保五年(1217)の「経房遺書」に記されていた。
   ・・・・


「経房」 とは、従者のひとり、藤原経房のこと。有名な藤原経房とは別人のようです。
岩崎八幡社の年中行事には御命日法要があって、毎年5月17日に行われるようです。









野間地区の東側にある野間大原には、来見社 [くるみしゃ] という小さな神社があります。
祭神は同じく安徳天皇。

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京都の大原には建礼門院、能勢町の野間大原には安徳天皇。
大原つながりは、単なる偶然か?


来見社の前から西を見ると、集落を見下ろす位置にあることが分かります。

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安徳帝陵墓のある来見山や、さらに遠くには有馬の山並みも望めます。
(右のほうには小さな天文台がある)




安徳天皇の摂津国潜幸は伝説の域を出ないといえばそれまでですが、
安徳帝を祀る里人が今もこの地におられるという驚き。
しかも源氏発祥の地・多田がすぐ近くあるという不思議。



安徳天皇陵墓 (大阪府能勢町)








≪余談1≫

  野間地区の中心部に、野間の大ケヤキ (国指定天然記念物) があります。
  樹齢1000年以上。
  幹回りが14メートルもある巨木です。
  あまりの大きさにびっくりです。

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毎週土日に青空カフェが大ケヤキ前で営業しているそうです。(写真左側の屋台)





≪余談2≫

  地図を見ると、野間大原の来見社と野間の大ケヤキのほぼ中間に天王山神社があり、
  気になったので立ち寄ってみました。

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  由緒書がなく、詳細不明。
  あくまで妄想ですが、祭神が安徳天皇で、天皇さんの神社が天王山神社と呼ばれるようになったのかも。







※ 能勢町の野間地区から黒川地区へのんびり歩いたこの日(10月15日)は、久しぶりの抜けるような青空。
  コスモスやダリヤの花が沿道に咲き、刈り取りを待つ稲田も黄金色に光る中、気持ちの良いハイキングでした。



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プロフィール

なむさいじょう

Author:なむさいじょう



阪神エリア在住のおっさん。
時間を見つけては奈良めぐり。

※2013年までの過去記事は本サイトへインポート後、一部を除いてリンクの更新等を行なっておりませんので見苦しい部分があります。ご了承ください。
※過去記事へのコメントも歓迎。

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