平重衡を追う(67)~ 信円



信円という僧侶が現在どれほど知られているのか知りませんが、
平安時代末期、反平家勢力を多く抱えていた興福寺のトップクラスの人物。
治承4年(1180) 12月28日の南都焼き討ちの目的は、単に南都を攻撃するだけでなく、
そういった人物も討ち取ってその首を京に持ち帰ることだった。
このため、信円も標的にされていたようです。
ところが南都焼き討ちのとき、信円は興福寺にはおらず、今の正暦寺に住んでいた。
狙われているので平家軍が押し寄せるのは時間の問題と、
信円は正暦寺と同じように興福寺の息がかかっていた内山永久寺(現廃寺)に移った。
しかし、追っ手があちこちの寺を探していると知り、山の中に逃げ込んで事なきを得た。
結局、正暦寺や内山永久寺に追っ手の平家軍を呼び込んでしまい、被災したということです。
正暦寺のご住職の説明を聞いて、興福寺からかなり離れた正暦寺が全山焼失した理由がようやくはっきりしました。
しかも内山永久寺も焼かれたことを初めて知りました。


正暦寺本堂下の斜面には供養塔や墓石がたくさんあります。
斜面の一番上には、3基の宝篋印塔(鎌倉時代)。
そのうちのひとつが、平家軍がその首を手に入れたかった信円の墓です、とご住職。

ネットなどでさらに調べると、3基の宝篋印塔は信円、良円、松殿基房の墓と伝わっているそうです。



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往時の正暦寺を描いた絵巻 (レプリカ)
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山内に80余の塔頭などが建ち並ぶ大寺院だった。






ご住職の右側にある宝篋印塔が信円のものと伝わる墓
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ほかの2つの宝篋印塔は、良円、松殿基房の墓と伝わる。







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信円★ 周辺の人たち

  父:藤原忠通 (春日若宮おん祭を始めた人)
  同母兄:松殿基房 (殿下乗合事件関係者)★
  異母兄:九条兼実 (平家嫌いで有名。日記『玉葉』で平家への苦情を記したクジョウさん)
  異母弟:慈円 (天台座主。『愚管抄』筆者)
  従兄(実兄とも):藤原基実 (近衛家の祖)
  甥:良円 (九条兼実の息)★
  甥:実尊 (松殿基房の息)

     ★正暦寺にこれらの人たちのものと伝わる墓がある。


信円は解脱房貞慶や俊乗房重源とも親交があったようです。
南都焼き討ち後、興福寺の別當となり、その再興に尽力しました。
また東大寺再興の大勧進・重源さんとも親交があったことから、
文治元年(1185) の東大寺大仏開眼法要の咒願師、建仁二年(1203) の東大寺大仏殿落慶供養の導師を務めています。

平重衡が処刑されたのは、文治元年6月23日。
その約2か月後の文治元年8月28日、大仏開眼法要が行われています。
信円は、元仁元年(1224) 11月19日、正暦寺(菩提山正願院)で亡くなりました。
享年72歳。当時としては、天寿を全うしたと言っていい年齢でしょう。



“ 先に私の首が。。。む、無念じゃあ~ ”
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(平重衡)






<南都焼き討ち被害寺社一覧> (一部伝承のものあり)

     東大寺
     手向山八幡宮(旧)
     興福寺
     率川神社
     隼神社
     般若寺
     元興寺
     法華寺
     不退寺
     超昇寺(現在廃)
     佐紀神社
     正暦寺 〔以上、奈良市内〕
     當麻寺 〔葛城市〕
     神童寺 〔京都府木津川市〕
        → 拝観のしおりには南都焼き討ちの際、平資盛によって焼かれたとあるが、平重衡の間違いでしょう。
     内山永久寺(現在廃) 〔天理市〕 ★今回追加




正暦寺




平重衡を追う(66)~ 隼神社



奈良市の小西さくら通りと三条通の交差点を少し南に行くと、隼 [はやぶさ] 神社があります。
別名、角振明神、角振隼明神。
角振新屋町 [つのふりしんやちょう] にあって、ビルの谷間にひっそりと鎮座しています。
由緒書によると、祭神は角振隼総別命 [つのふり はやぶさわけの みこと] で、
 「神武天皇の大和平定に寄与し給ふた大神で、昔から柿を神木として神殿を設けず」
とあります。
当初は、祠があったようです。


隼神社
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狭い境内にある木は神木の柿でしょうか?
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うしろの小さな祠は宗像社。




実は、














  「ここも燃やしちゃいました」 (T.S衡)
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このせいで当初の祠は無くなり、その後は柿を神木として仰いだと、由緒書にある。

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  「若草山焼きの焼き払いボランティア活動へ向かう前に、神社の様子をこっそり見に来ました。
   僧兵に見つからないかとヒヤヒヤでしたよ」 (T.S衡)

     ■■は現場に戻ると言われていますからね。





南都の僧兵
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ε==ε==ε==0011-3.jpg
「逃げる鹿ないっしょ」



南都焼き討ちの日




今年もやって来ました、12月28日。

“ 南都燈火会記念日 ”


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     東大寺
     手向山八幡宮(旧)
     興福寺
     率川神社
     隼神社
     般若寺
     元興寺
     法華寺
     不退寺
     超昇寺 (現在廃)
     佐紀神社
     正暦寺 〔以上、奈良市内〕
     當麻寺 〔葛城市〕
     神童寺 〔京都府木津川市〕
        → 拝観のしおりには南都焼き討ちの際、平資盛によって焼かれたとあるが、平重衡の間違いでしょう。



 大火災は、夜になって暗いので明かり用に灯した松明の火が、折からの強風にあおられて燃え広がったためと、『平家物語』(覚一本) は失火が原因との立場です。
 一方、九条兼実の日記 『玉葉』 には南都焼き討ちが事前に計画されていたことがわかる一節が記されていますし、『山槐記』 や 『延慶本平家物語』 の記述も踏まえると、焼き討ちは当初からの計画的な作戦だったとする研究者が多いようです。
 ほんとうに失火なら奈良時代の建築である正倉院や転害門も焼失して不思議ではありませんし、奈良の中心から外れた場所にある正暦寺や當麻寺の被害が偶発的な失火では説明できませんね。

 東大寺大仏殿について言えば、その2階に避難していた人々(足の弱った老僧、女性、子どもなどの戦争弱者) 1,700余人が平家軍によって放たれた炎に巻き込まれ、天を響かし、地を動かすほどの叫び声をあげながら焼け死んだことが 『延慶本平家物語』 に記されています。




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治承四年(1180)12月28日の南都焼き討ちにより、ここで1,700余人が焼死。
大仏さまはこの人たちの墓標と見なすこともできるのでは。

合掌






≪余談≫

東大寺東塔院跡発掘現場 (2016年11月)
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南都焼き討ちによる焦げ跡(赤矢印)が見られた貴重な機会でした。



播州清水寺



西国三十三所第25番札所・清水寺。


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兵庫県加東市にあります。
京都の清水寺と区別するために、播州清水寺とも呼ばれます。
播州、つまり播磨の国にある清水寺です。
開山は法道仙人というナゾの人物。
一説には、インドの仙人ということですが、
播磨地方の寺院には法道仙人開基と伝わるところがたくさんあります。

<参考> 法道仙人像 (忉利天上寺)
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六甲山地の摩耶山にあります。




根本中堂は推古天皇勅願所と伝わります。

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本尊・十一面観音菩薩立像が30年ぶりにご開帳していました。 (2017年11月1日~11月30日)
拝観のしおりには、根本中堂が大正二年に炎上した際、「自ら避難」 したとあります。
日ごろから、人目を忍んで自ら避難訓練をされていた成果なのでしょうか。




大講堂は聖武天皇が行基菩薩に作らせたと伝わります。

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西国第二十五番札所になっています。
札所本尊は十一面千手観音菩薩坐像で、大正時代に製作された新しい像です。
 記事 →

境内からは明石海峡大橋が見えましたよ。




さて、この播州清水寺。
平家ゆかりと伝わる寺院でもあります。


薬師堂

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創建は池の禅尼と伝わります。
平清盛の継母です。
少年だった源頼朝の助命を清盛に要請したことでも知られています。
堂内には、せんとくんの作者・薮内佐斗司先生によるユニークな十二神将が安置されています。
現在のお堂は、昭和59年に再建されたもの。



多宝塔(跡)

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建立は祇園女御と伝わります。
『平家物語』 にも出てくる女性で、白河法皇の晩年の愛人。
一説には、平清盛の生母とも。


現存していない常行堂は後白河法皇、阿弥陀堂は源頼朝によって建立されたと伝わります。


なんだか、ビッグネームがあり過ぎて、う~ん。。。。


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HarimaKiyomizu-shuinA.jpg






≪余談≫

 京都テレビなど関西のローカル局を中心に放送されている 「西国三十三所 観音巡礼 祈りの旅」
 25分ほどのこの番組では、毎回、順を追って一寺ずつ紹介されています。
 札所本尊の観音さんや寺の歴史、見どころなどが紹介され、ご住職のお話もあります。
 スイーツ巡礼と称して、草創1300年を記念した銘菓も紹介されています。
 番組の最後で、ご詠歌が唱えられるのも特徴です。
 兵庫県在住なので、ワタクシはサンテレビで観ていますが、次回は第三十番札所・宝厳寺が紹介されるようです。

 この番組、一点だけ、ワタクシの気に入らない部分がありまして、
 巡礼の雰囲気づくりのためか、巡礼装束の男性が映像に登場するのですが、
 歩いているシーンで右手の杖を突くタイミングを歩調にまったく合わせていないのですよ。
 イラッとさせられるのは、ワタクシだけでしょうか。



西国三十三所草創1300年 特設サイト →


源平ゆかりの高野山寺院 (番外)



その他にもある源平ゆかりの高野山スポット。



(1) 対面桜


中門
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対面桜
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(2015.5.25)



 2015年に再建された中門の北側に桜の木があります。
 傍らの説明板によると、

 - 対面桜 “Taimen Zakura (Face-to-face Cherry Tree)”
   平安時代の久安五年 (1149) 5月に大塔が落雷で焼失し、修造奉行として平清盛が任命され、
   保元元年 (1156) 4月29日に大塔を再建しました。
   修造が終わり、供養のため登山された折、大塔の桜の樹のもとに弘法大師が現れてその功を讃えられ、
   清盛はそれ以来ますます随喜崇敬の念を深めました。
   平清盛と弘法大師が対面した場所にあった桜の木は 「対面桜」 と呼ばれるようになりました。 -

 今見る桜の木は、この言い伝えをもとに比較的最近植えられたものでしょうね。
 「ふぇいす・とぅー・ふぇいす・ちぇりー・つりー」 って表現でいい?





(2) 鳥羽天皇皇后得子 高野山陵


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(2013.10.28)



 藤原得子 (美福門院) は、鳥羽法皇の后。
 皇位継承に係る陰謀が渦巻く中で、保元の乱の原因を作ったとも言われています。
 高野山に帰依していた美福門院は、死後、高野山に葬るよう遺言したそうです。
 女人禁制の高野山は埋葬の賛否で大騒動になったようですが、結局、遺言どおりになりました。
 武家政権が始まったのは、美福門院が亡くなった永暦元年 (1160) の約30年後でした。
 御陵の奥のほうを見ると、五輪塔と無縫塔が隣り合って立っていました。
 御陵は蓮華谷にあって、不動院が供養奉仕をされているとのこと。

 高野山霊宝館で2017年春に開催された 「霊場高野山 納骨信仰の世界」 展で、
 『紀伊国名所絵図』 から、永暦元年 (1160) 美福門院の遺骨を弟の備後守時通が高野山へ納骨するため
 高野山町石道を登る様子の絵が紹介されていました。





(3) 六角経蔵


奥に見えるのが六角経蔵
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把手を押して回します。
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(2017.11.10)



 壇上伽藍にある六角形の経蔵で、荒川経蔵とも言われます。
 手元の資料によると、以下のとおり。
   美福門院が六角経蔵を建立したのは鳥羽法皇の菩提を弔うためで、
   紺紙に金泥で浄写した一切経をこの経蔵に納めた。
   この紺紙金泥一切経は、美福門院が領地の荒川荘 (現在の紀の川市桃山町付近) を灯明料として寄進したことに
   由来して、荒川経とも呼ばれる。
   火災で何度か焼け、現在の建物は昭和九年 (1934) に再建されたもの。
   経蔵の基壇の上のところに把手がついていて、それを押すと上部が回転するように作られていたが、
   現在の建物では枠だけが回るようになっている。
   一回りすれば一切経を読誦した功徳が得られると言われている。
   この経蔵に納められた紺紙金泥一切経は現在3,560巻ほどが現存して、重要文化財として霊宝館に収蔵されている。

 ワタクシも押し回しましたが、以前に比べてあまり力を入れなくても回るようになった気がします。(改良された?)
 功徳がたくさん得られるように、5周しました。



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なむさいじょう

Author:なむさいじょう



阪神エリア在住のおっさん。
時間を見つけては奈良めぐり。

※2013年までの過去記事は本サイトへインポート後、一部を除いてリンクの更新等を行なっておりませんので見苦しい部分があります。ご了承ください。
※過去記事へのコメントも歓迎。

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