神戸で流鏑馬 (その2)



(つづき)


神事は山田の各地区が輪番で担当し、当番地区の代表が行列の先頭を行くようです。
モーニング姿の地区代表が六條八幡宮の鳥居をくぐります。
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後続の行列も鳥居をくぐって境内に向かって参道を進みます。
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こちらの境内でも、行列が何周か回りました。
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本殿の東隣りにある三重塔は、国指定重要文化財。
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棟札の墨書によれば、文正元年(1466) に竣工、願主は平盛俊などとなっています。
時代が違うので、一の谷の戦いで戦死した平盛俊とは別人でしょう。








例祭が終わって鏡開きがあり、参列者にお酒が振る舞われたあと、流鏑馬が行われます。

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今年2017年は射手が二人いて、交互に駆けていましたので、見ごたえのある流鏑馬でした。








河岸段丘の対岸から六條八幡宮を望む。 (画面左中)
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塔の相輪も見えます。







六條八幡宮








≪余談≫

  源平の戦いが行われていたころの馬は、今のポニー程度の大きさだったそうです。


T.S衡 「飛び入り参加するつもりで駆けて来たのに、途中の須磨寺駅前で落馬してしまったうえに、馬に逃げられたよ」 (泣)

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神戸で流鏑馬 (その1)



神戸にも、のどかな里山があります。
六甲山地の北側にある神戸市北区山田町も、そのような地域。
山田の地の総鎮守社である六條八幡宮は、社伝によると創建は長徳元年(995) で、
保安4年(1123) に山田庄の領主だった六條判官・源為義 (頼朝の祖父) が、
京の六条左女牛 [さめがい] (醒ヶ井) の自邸に祀っていた左女牛八幡大神を勧請合祀したので、
為義の称号をとって六條八幡宮と呼ばれるようになったと伝わります。
その後、山田庄は奈良・東大寺領となり、平清盛が所領の越前国大蔵荘と交換して平清盛領となりましたが、
平家没落後の文治3年(1187) に源頼朝が接収し、
六条左女牛八幡宮 (今の若宮八幡宮、陶器神社) に社領として寄進したそうです。



さて、六條八幡宮では毎年10月第2日曜日に例祭があり、流鏑馬 [やぶさめ] 神事が行われます。
神戸市のHPによると、神事の概要は以下のとおり。

 <概要>
  北区山田町にある六條八幡宮では、市内で唯一見られる流鏑馬が地域の伝統行事として受け継がれている。
  白衣、袴を着け、花笠を被った小刀弥 [ことね] (射手) が走る馬から矢で的を射る流鏑馬神事は県下でも珍しく、
  武神を祀る六條八幡宮ならではの神事で、市無形民俗文化財に指定されている。
  六條八幡宮は千年以上の歴史がある神戸市北区山田町の総氏神。
  境内には、三重塔 (国指定重要文化財) があり、山田町のシンボルとして室町時代の優雅な姿を今に伝えている。

 <開催日・場所>
  10月第2日曜日・六條八幡宮 (神戸市北区山田町中字宮ノ片57)

 <内容>
  ・ 七社 [しちしゃ] 神社  例祭:9時40分頃~、流鏑馬:10時頃~
               六條八幡宮に先立って近くの七社神社で流鏑馬が行われ、その後六條八幡宮まで行列が練り歩く。
  ・ 六條八幡宮  例祭:11時30分頃~、流鏑馬:例祭終了後
               七社神社から行列が到着後、例祭があり、その後流鏑馬が行われる。



興味深いのは、流鏑馬の仕方。
六條八幡宮より創建が古いとも言われている七社神社では、本殿前で止まっている馬の上から的に矢を射ったあと、
100mほど先にある鳥居に向かって走ります。
これを駆け出しの流鏑馬と言うそうで、4回繰り返し行われます。
ニュース映像などでよく見かける、疾走する馬の上から複数の的に連続的に矢を射る流鏑馬とは違います。
六條八幡宮でも、最初の2回は止まっている馬の上から的に矢を射ったあとに走り出す流鏑馬ですが、
その後は疾走する馬の上から矢を射るスタイルになり、これを数回繰り返しました。
的は1回の疾走に付きひとつです。
走る向きは今度は逆で、本殿の100mほど南にある鳥居から本殿に向かうので、駆け入りの流鏑馬と言うそうです。
七社神社から六條八幡宮に向けて、何かを届けていることを暗示しているのでしょうか。






六條八幡宮の南西約1.3kmにある七社神社の近くにも、茅葺き屋根の家があります。
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ここ、神戸市内です。







行列が七社神社の境内に入って数周回ります。
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馬子は小学生の女の子でした。
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例祭が始まりました。

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例祭が終わると鏡開きがあり、参拝者にも樽酒の振る舞いがありました。
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いよいよ流鏑馬です。

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参道の先にある鳥居のところまで疾走。
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以前見たときと、花笠の配色が違っている?







神事が終わったら、六條八幡宮まで練り歩きです。
集落を縫う細い道をのんびりと行列が行きます。
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黄金色の稲穂が風にかすかに揺れています。
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(つづく)



平重衡を追う(64)~ 密かに南都入り




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  「能が上演されるので、密かに南都入り。
   しかし、ポスターの掲示をよく許していただけましたね。
   さすが東大寺さん、懐が深い。
   “南都演上” !? 」  (T.S衡)


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(2017年10月14日、「演上」 )





2017年10月7日、東大寺東塔院跡発掘調査の平成29年度成果を一般公開する現地説明会があったので、
立ち寄りました。
詳しいことは、以下のサイトでどうぞ。

    産経新聞 →
    奈良テレビ →


概要説明に使われた 「寺中寺外惣絵図」 は江戸時代初期の絵地図で、東大寺とその周辺が描かれたイラストマップ。
今回の発掘から東塔院南門は転害門と同じ八脚門と推定され、惣絵図と一致しているようです。
「寺中寺外惣絵図」 の記載内容はかなり信頼性が高いということですね。



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「今回は南都焼き討ち関連の出土はなかったようです。」 (T.S衡)








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≪余談≫

   「寺中寺外惣絵図」 は、源平クラスタにとって注目すべきものが記録されています。
   浄土堂跡 (現在の東大寺俊乗堂) の周辺に、治承4年(1180) の南都焼き討ちで平家軍の先鋒をつとめた阿波民部重能、
   源頼朝、源義朝らの供養塔、重源上人の墓 「俊乗石廟」 があったことが分かる、興味深い絵図です。
   これらの供養塔や墓石の多くはその後、東大寺の北方にある伴墓 (現在の三笠霊苑の一画) に移されましたが、
   現地では重源さんの墓石ぐらいしか分かりません。


「寺中寺外惣絵図」 の浄土堂周辺 (左が北側になるよう修正)
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↓ 大仏殿




平重衡を追う(63)~ いま東大寺ミュージアムにいます



JR西日本の観光キャンペーン 「ちょこっと関西歴史たび」 の一環として、
「東大寺大仏縁起絵巻」 が東大寺ミュージアムで特別公開されていますが、
上巻と中巻の公開が終わって、現在、下巻が公開されています。(9月30日まで)


公開されている下巻の内容は、
  ・ T.S衡による南都焼き討ちの場面
  ・ 重源さんが大仏殿再建用の用材を海路で運ぶ場面
  ・ 源頼朝と警護する数万の武士たちが大仏殿落慶供養に参列する場面



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     「東大寺でワタクシの姿を見られるのはレアですよ~。
      ワタクシだけでなく妻も大変お世話になった重源上人、
      鎌倉で千手ちゃんとの楽しい思い出を作ってくれた頼朝兄さんも登場してます。
      見に来てね~」 (T.S衡)


  ※ ちょこっと関西歴史たび 世界遺産 東大寺 →




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平重衡を追う(62)~ 大仏殿の中の重衡



※ 以前にアップした記事の増補版です。



東大寺大仏殿に入って左の柱に扁額がかかっています。
数年前にこの柱の横に献灯台用の大きなケースが置かれ、扁額が見えにくくなってしまいました。


以前の様子
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最近の様子
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以前、扁額を撮影し、拡大して一文字ずつ拾ってみたのがこれ。
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(誤字あると思う)




扁額を奉納したのは、薩摩 (大隅と日向も) のお殿様・島津吉貴。
日付けが宝永6年(1709) 3月14日となっているので、
江戸時代の大勧進・公慶上人らの尽力で再建なった大仏殿の落慶供養 (3月21日~4月8日) の直前です。
落慶供養に合わせて、曼荼羅用の檀(?)などを奉納したことが記されています。
今、奉納品はどこにあるのでしょうか?


文章の前半は大仏殿創建とその後の再建の経緯が書かれていて、
聖武天皇、源頼朝 (右幕下)、重源上人、公慶上人などの歴史上のビッグネームが並んでいます。
焼き討ちした 平重衡 もちゃんと記されていますよ。


右から2行目に、平重衡が 治承4年 12月28日 に大仏殿を燃やしたと書かれています。

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額縁には島津家の紋がありますね。



島津の家伝では、島津氏の祖である島津忠久は頼朝が側室に産ませた子としているため、
扁額のお殿様 (島津吉貴) は自らを頼朝の後裔(22代)と称しているのでしょうね。 (史実かどうかは???)

再建の大仏殿の屋根を支える虹梁には、日向国の白鳥神社の境内にあったアカマツの大木が使われています。
切り倒された木は宝永元年(1704) 1月に白鳥神社を出発。
船に乗せるために鹿児島湾まで運ぶ作業には、島津吉貴の指示があったようです。
東大寺に着いたのは同年9月でした。



大仏の再鋳と大仏殿の再建に心血を注いだ公慶上人。
宝永6年の大仏殿落慶供養には、その姿はありませんでした。
その4年前に亡くなっていたからです。
過労死だったとも言われています。
さぞかし無念だったでしょう。

公慶堂の公慶上人像は、大仏殿に向けて安置されています。



公慶上人の墓
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公慶上人の後を引き継いだ公盛上人の墓
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いずれも五劫院の墓地にて




平重衡を追う(61)~ 大納言典侍の願い



平重衡の正室 (大納言典侍) は、南都焼き討ちで溶け崩れた大仏を再び鋳造するための溶鉱炉に
夫が所有する銀・銅製品を寄進したいと、東大寺大勧進・俊乗房重源さんに依頼したところ、重源さんはこれを許した、
という話は以前の弊記事:
    ・ 「平重衡を追う(53)~ 平家に寄り添う重源」
    ・ 「平重衡を追う(58)~ 重衡忌2017」
などで紹介しました。

この話の出どころは鎌倉時代の記録書 『東大寺続要録』 の 造佛篇 で、実際の文章は以下のとおり。


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    「上人」 とは、俊乗房重源さんのこと。


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ただ、後半の部分に、

    溶鉱炉に重衡の金属製品を加えようとしたところ、炉が破裂し、その金属製品は受け入れられなかった。
    あまりにも重い罪のため、大仏さまはまだお許しになっていないためか。

というような意味のことが記されています。

溶鉱炉の破裂事故が起きたのは、おそらく事実でしょう。
炉に構造的な欠陥があったか、炉の使い方に問題があったのだと思います。
ただ、焼き討ちの悲劇を知る人々に対して、事故原因を工事作業側のミスと説明するより、
大仏さまの怒りがまだ収まっていないためとしたほうが説得力ありますから、上記のような記述になったのでしょう。

重衡の金属製品は受け入れられなかったと記されていますが、
貴重な金属材料であり、再鋳に必要ですから、捨てられることはなかったでしょう。
実際には新たな炉に加えられて溶かされ、大仏さまの一部になったのではないかと考えます。



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平重衡を追う(60)~ 南都焼き討ちの痕跡



東大寺の東塔跡の発掘で、治承4年(1180)の平重衡の南都焼き討ちにより東塔が焼け落ちたとみられる痕跡が見つかったと、2016年10月に報道がありました。
  その当時の資料 → (PDF, 1.71 MB)

現場説明会には行けませんでしたが、同11月にたまたま現場近くを通ったとき、その痕跡を見ることができました。



東大寺東塔院跡発掘現場 (2016年11月)
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基壇の階段の踏み石 (右の矢印) には焼け焦げた跡が残っていて、倒れかかった石材 (左の矢印) が出土するなど、
塔が炎上して倒壊した様子が伝わります。
南都焼き討ちの痕跡を実際に見たのは、これが初めてでした。

ん?。。。木の陰からこっそり発掘の様子をうかがっている人が! 犯行現場に戻ってくるとよく言われますが。。。。




で、2017年8月5日の現場の様子。

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現在、基壇は埋め戻されています。

実はこの日、東大寺で 「東大寺東塔院跡の発掘調査2 -天平の塔基壇- 」 と題する講演会があり、聴講しました。
内容は、
   1.東大寺東塔院とは?
   2.平成27年度の調査で判明していたことと問題点
   3.平成28年度の調査で判明したこと
   4.今後の調査と課題
でした。
また、出土品から分かる奈良時代の塔の屋根の一部も紹介され、配布資料にも写真が載せてありました。
とても興味深い内容が盛りだくさんでしたが、ここで詳しく紹介できませんのであしからず。
「4.今後の調査と課題」 は、東塔を囲む回廊と四方に設けられたであろう門の実態解明、だそうで、
新たな解明が進むことを期待します。

素人にも分かり易い譬えを使っての説明だったり、現場での苦労話があったりと、とても好感の持てる講演でした。


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 ※ 西塔跡も一緒に発掘したらいろいろと分かるはずなのに、と素人は簡単に考えますが、簡単には行かないのでしょうね。



平重衡を追う(59)~ 文使い地蔵



毎年7月24日、東大寺塔頭・知足院で地蔵会の法要があります。
東大寺の塔頭の中で、一般者が参列できるのは知足院の地蔵会だけと思います。
この日だけ知足院本堂が開けられ、本尊のお地蔵さんも特別に開扉されます。
幸運なことに、今年2017年も法要に参列できました。

以下、昨年2016年の知足院地蔵会の記事を一部編集して再掲します。


知足院本堂での法要は、午前8時に始まります。
東大寺一山の僧侶が出仕されるそうですが、今回24名でした。
唱えられるお経は、「九条錫杖」 と 「理趣三昧」。
「九条錫杖」 は、二月堂修二会でも耳にします。フシや速度が少し違いますが。
「理趣三昧」 では、導師を除いた一同が理趣経を唱えながら堂内を行道します。
これだけの人数の僧侶がお堂の中で読経するのは、見ごたえ、聞きごたえ十分です。

法要は1時間あまりで終了。

法要後、参拝者は堂内の厨子に安置されている本尊・地蔵菩薩立像を間近で拝むことができます。
截金も美しい、凛としたお地蔵さんです。
(参拝者の状況を見ながら10時半ごろには閉まるようなので、堂内拝観はハードルが高い)。


このお地蔵さんには、伝説があります。

  平重衡による南都焼き討ちに遭った東大寺を大勧進・俊乗房重源さんとともに再興するため、
  造東大寺長官となった藤原行隆は、再興事業半ばで死去。
  今でいう過労死だったようです。
  嘆き悲しんだ幼い娘は、亡くなった父親へ手紙を届けて欲しいと
  父親が信仰していたお地蔵さまに毎日泣きながらお祈りしました。
  すると7日目の朝、お地蔵さまの手に娘の手紙とは別の手紙が結び付けられていました。
  その手紙は亡き父親の筆跡による返事で、今、私は兜率天 [とそつてん] にいるので嘆き悲しむことはない、
  おまえは大仏さまにいつもお祈りしなさい、などと書いてあって娘は驚くとともに大喜びした、
  という伝説。
  このお地蔵さまが、現在、東大寺塔頭知足院におわす 文使い地蔵 [ふみづかいじぞう] さんです。


歴史に 「もし」 は禁句ですが、もし重衡が焼き討ちしなければ、藤原行隆の過労死はなかったでしょう。
でも、「文使い地蔵」 もなかったということになります。
歴史の皮肉ですね。
少し強引ですが、平重衡ゆかりのお地蔵さまとも言えるかも知れません。

なお、知足院地蔵会は法要だけです。
子供向けのイベントとか、お菓子やおもちゃなどの授与はありませんので、
そういったことを期待して行ってはいけません。






≪余談1≫

  奈良国立博物館で開催中の 「源信」 展。 (期間:2017年7月15日 ~ 9月3日)
  8月1日から伝説の 「文使い地蔵」 さん、お出ましになりますよ。
  寺外展示は、あべのハルカス美術館で2014年に開催された 「東大寺」 展以来でしょうか?



≪余談2≫

  東大寺再興に尽力した造東大寺長官・藤原行隆は、二月堂修二会 (お水取り) の過去帳で、
  “造寺長官行隆左大弁” [ぞーじのちょーがん ゆきたかの さだいべん]
  と読み上げられていますよ。
  ちなみに、行隆から数えて3人目は後白河法皇、18人目は源頼朝が登場します。
  なお、藤原行隆は 『平家物語』 の 「行隆之沙汰」 の段に登場する人で、平清盛のおかげで朝廷に復帰できた。



≪余談3≫

  知足院地蔵会法要後、ご朱印を所望されている方がいらっしゃいましたが、
  知足院さんは普段も受け付けておられません。
  普段もお堂は閉まっていて、堂内参拝はできません。





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平重衡を追う(58)~ 重衡忌2017



「ゆーびんデ~ス」
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ということで、今年もお参りに行ってきました。


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「いつもお世話になっています」







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ご住職から焼香の作法についてお話がありました。
そして今回の焼香は年齢順としましょう、とワタクシが一番手に指名されてしまいました。(笑)


法要後、参列者は自然と “しげひラー” の集いの様相となり、各自さまざまな思いを語られていました。
ご住職をはじめ参列の方々、ご縁を頂き、ありがとうございました。





≪余談≫


平重衡の妻の大納言典侍の件の補足。
東大寺大勧進・俊乗房重源さんは大納言典侍の願いに応じて、重衡が焼き討ちで溶かしてしまった大仏を再鋳造するための大炉に、供養のため重衡が所蔵していた銀・銅製品を奉加することを許しました。 (『東大寺続要録』)
大納言典侍は、南都焼き討ちの悲惨な結果を聞いて胸を痛め、このようなお願いを重源さんにしたのだと思います。
いまの大仏さまのどこかに、重衡の所蔵品が溶け込んでいる可能性があります。
大仏さまを拝むことは、南都焼き討ちの犠牲者や重衡の供養にもなると思います。




江戸時代の名所ガイドブック 『拾遺都名所図会』 の件の補足。

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右から、「御霊社」、「哀堂」、「首洗池」、「ならず柿」と書かれています。
“重衡首洗池” は江戸時代も名所だったようですね。
現在は場所が移って、しょぼい水溜まりみたいですけど。
安福寺ではなく哀堂になっていますね。
御霊社は安福寺さんの東隣にある御霊神社のこと。



夏草ボーボーでよく分からない状態の重衡首洗池とならず柿 (重衡忌法要前に立ち寄り)
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平重衡を追う(57)~ 敵の敵・横川覚範



横川覚範の供養塔と首塚
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吉野の上千本に、横川覚範 [よかわのかくはん] の供養塔と首塚があります。

以下、説明板から抜粋・要約:

  文治元年 (1185) 12月、兄の頼朝の怒りに触れた源義経が、家来 (武蔵坊弁慶、佐藤忠信、伊勢の三郎、
  常陸房 [ひたちぼう] 海尊、鷲尾の七郎、片岡の八郎) と、静御前を連れて雪の吉野山に入り、
  吉水院 (吉水神社) に身を隠していた。
  ところが、あてにしていた金峯山寺の僧兵が敵になったため、吉野水分神社まで逃げた。
  僧兵の中でも屈強の横川覚範が追ってきたので、佐藤忠信が義経の身代わりとなって戦い、
  花矢倉から矢を浴びせて覚範を討ち取り、そのすきに義経一行を落ち延びさせた。
  討たれた覚範の首が埋められたのがこの場所と伝わる。


「横川」 なので、比叡山の僧だったのでしょうね。
そういえば、武蔵坊弁慶も比叡山にいたな。


横川覚範首塚から少し登ったところにある花矢倉の展望台
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(現状、立ち入り禁止)

しかし、大量の矢はどうやって手に入れたのか?
















今回の記事はあまり平重衡に関係のない余談っぽいのですが、さらに余談です。



勝手神社
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 中千本バス停の横にある勝手神社は、2001年に放火により焼失してしまいました。
 立ち入り禁止だった境内は、最近になって入れるようになりました。
 静御前が追っ手に捕まったときに、この境内で舞を舞ったと伝わります。








白拍子の舞
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 静御前の母・礒野禅尼は今の大和高田市が出身地と言われ、吉野で捕まった娘とともに鎌倉へ送られました。
 静は鎌倉で義経の子を産みましたが、男子であったため頼朝の命により赤子は由比ヶ浜で殺されました。
 静御前と礒野禅尼は釈放され京都へ戻ったとされますが、その後の消息は不明のようです。
 郷里の大和高田市に戻ったとも言われています。
 このため大和高田市には、静御前や礒野禅尼の伝説が残っています。
 写真は奈良大立山まつり2017で披露された 「白拍子の舞」 で、大和高田市の出し物。
 もちろん静御前をイメージしていますね。




 比叡山・横川ゆかりの僧侶といえば、慈慧大師良源 (元三大師)、恵心僧都源信が有名。
 良源はおみくじを始めた人。
 源信は 『往生要集』 を著した人。奈良博の源信展、楽しみです。


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プロフィール

なむさいじょう

Author:なむさいじょう



阪神エリア在住のおっさん。
時間を見つけては奈良めぐり。

※2013年までの過去記事は本サイトへインポート後、一部を除いてリンクの更新等を行なっておりませんので見苦しい部分があります。ご了承ください。
※過去記事へのコメントも歓迎。

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