6月23日 平重衡の命日


文治元年(1185) 6月23日、平重衡 処刑。


墓所 (高野山)
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今年2018年もお参りできました。(5月)


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処刑直前の重衡の姿 (安福寺@木津川市)
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阿弥陀さんと2ショットで。
江戸時代に描かれたものなので、もちろん空想の姿。
本尊の阿弥陀如来さんは、近くを流れる木津川で重衡が処刑されたときの引導仏と伝わります。



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≪余談1≫

 重衡に仕えた木工右馬允知時は、重衡の最期を見届けた人。
 京都の日野で荼毘に付された重衡の遺骨は、埋葬のため知時によって高野山へ運ばれたと伝わります。
 その知時も、高野山の専修往生院で念仏集団のメンバーに加わっていたようです。


円通律寺
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専修往生院の後身寺院。





≪余談2≫

 重衡が処刑されてから約2か月後の8月28日、再鋳された東大寺大仏の開眼法要が執り行われました。
 大仏開眼のときに重衡が生きているのはさすがにマズイので、その前に処刑されたのでしょうね。
 開眼法要では、参列した後白河法皇自らが、大仏さまの目に瞳を描き入れました。
 その時に使われた筆が、正倉院宝物として残されています。(実物を「東大寺大仏展」で見ました)




≪余談3≫

平家打ち首三人衆
(左から)平宗盛、平敦盛、平重衡
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(神戸・清盛隊@神戸ルミナリエ、2012年)




平維盛を祀る神社


大阪に平維盛を祀る神社があるのを最近知りました。

最寄駅は、大阪メトロ・喜連瓜破 [きれ・うりわり] 駅。
関西の難読駅のひとつです。

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この駅からほぼ南に向かって歩くこと約15分。


瓜破天神社
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祭神は、素盞嗚尊、菅原道真、平維盛の3柱。


由緒書きから抜粋・要約すると、以下のとおり。

  当地に住んでいた僧・道昭によって瓜破天神社の前身が創立された。
  寿永年間(1182~3) 平重盛に大恩を受けた武将湯浅七郎兵衛宗光が京都守護職として赴く際、
  当地で重盛の子・維盛が熊野の海で入水したとの報を聞き、
  慰霊のため維盛を祭神とする小松大明神社をこの近くに建てた。
  後年、瓜破天神社に合祀された。
  昭和時代に小松神社として分霊された。
  現在の瓜破天神社社殿は東面し、流造桧皮葺、江戸末期の修葺である。


道昭は遣唐使で唐に渡り、玄奘三蔵に師事。帰国後、法相宗を広めた僧。行基菩薩の師。
どこまで史実かわかりませんが、かつて平家に仕えたこともある湯浅宗光(宗重の子)が平維盛の入水を聞いて、
係わりのあるこの土地に社を建てて鎮魂した、ということでしょうか。
拝殿内の垂れ幕に、平家の家紋が!
菅家と八坂さんの紋もありますね。
レアな組み合わせ?


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瓜破天神社の由緒書にある小松神社は、瓜破天神社から南東へ約5分歩いたところにあります。


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この由緒書にある平重盛はその子・平維盛の間違いでしょうね。






≪余談1≫

 湯浅宗重の娘(宗光の姉か妹)は、高山寺の明恵上人の母親に当たります。



≪余談2≫

 源平戦線離脱した平維盛は、父・重盛の家臣だった滝口入道(斎藤時頼)を高野山の蓮華谷に訪ね、そこで出家。
 剃髪した維盛、滝口入道ら一行が高野山を出て熊野参詣に向かう途中、岩代王子の前で湯浅宗光が一行と出会った。
 湯浅宗光は、一行のひとりが屋島から逃げて来た平維盛だと分かったので、近づいてお目にかかりたかったが、
 遠慮して声もかけずに通り過ぎた、というようなことが 『平家物語』 の 「巻第十・維盛出家」 に書かれています。


蓮華谷 (高野山)
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牛若丸の修行場


五月連休に弁慶と牛若丸それぞれの修行場へ。
特にこの二人を意識して行ったのではなく、まったくの偶然。
弁慶の修行場は前回の記事 →
今回は、牛若丸(源義経)の修行場。
京都は鞍馬の山奥へ。




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≪余談≫


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「義経にボコボコにされたんですよ」
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(T.S衡)




弁慶の修行場


圓教寺 (西国第二十七番札所)
西国三十三所の中で、最も西に位置しています。
前回の参拝では書写山の麓から歩いて行きましたが、今回は今年2018年3月に新客車になったロープウェイに乗車。



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青もみじが目に鮮やか。
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ちょうど 「書写山 新緑まつり」 をやっていて、開山堂、大講堂、常行堂が同時オープンしていました。
堂内の性空上人坐像、釈迦三尊像、阿弥陀如来像 (いずれも国重文) の撮影OKという太っ腹。
ここではお像よりも面白そうな弁慶ゆかりのものの写真をアップしておきます。
圓教寺には、武蔵坊弁慶が少年時代を過ごしたという伝説があります。


弁慶のお手玉石
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怪力伝説。






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説明板の後ろに弁慶が勉強した建物がある。
弁慶の勉強机は食堂の2階で展示されている。







鏡井戸
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キレやすかった?







スイーツ「力餅」
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境内の「はづき茶屋」で。

弁慶伝説のある三井寺にも、怪力ぶりを伝える引き摺り鐘があったり、「力餅」がありますね。






以下、その他いろいろ。

三鈷杵を十字に組んだ羯磨 [かつま] をかたどった瓦
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開山堂ではチベット仏教僧によるチベット語のご朱印がいただけます。
ただし、常時書き手がいる訳ではないので要注意。

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朱印は、「三帝御親臨靈場」(←推定)、梵字の「ウン」(←推定)、「書写山奥之院」。
「三帝」とは、圓教寺へ行幸した花山法皇、後白河法皇、後醍醐天皇のことか。
なぜ梵字の「ウン」が使われているのか未確認。


期間限定のレアなご朱印当て紙
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性空上人に教えを請いに来た和泉式部ゆかりの歌塚もあり、
映画やドラマのロケ地にもなっていたりと、見どころいっぱいです。



※ 強引に「平重衡」カテ。



平重衡を追う(67)~ 信円



信円という僧侶が現在どれほど知られているのかわかりませんが、
平安時代末期、反平家勢力を多く抱えていた興福寺のトップクラスの人物。
治承4年(1180) 12月28日の南都焼き討ちの目的は、単に南都を攻撃するだけでなく、
そういった人物も討ち取ってその首を京に持ち帰ることだった。
このため、信円も標的にされていたようです。
ところが南都焼き討ちのとき、信円は興福寺にはおらず、今の正暦寺に住んでいた。
狙われているので平家軍が押し寄せるのは時間の問題と、
信円は正暦寺と同じように興福寺の息がかかっていた内山永久寺(現廃寺)に移った。
しかし、追っ手があちこちの寺を探していると知り、山の中に逃げ込んで事なきを得た。
結局、正暦寺や内山永久寺に追っ手の平家軍を呼び込んでしまい、被災したということです。
正暦寺のご住職の説明を聞いて、興福寺からかなり離れた正暦寺が全山焼失した理由がようやくはっきりしました。
しかも内山永久寺も焼かれたことを初めて知りました。


正暦寺本堂下の斜面には供養塔や墓石がたくさんあります。
斜面の一番上には、3基の宝篋印塔(鎌倉時代)。
そのうちのひとつが、平家軍がその首を手に入れたかった信円の墓です、とご住職。

ネットなどでさらに調べると、3基の宝篋印塔は信円、良円、松殿基房の墓と伝わっているそうです。



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往時の正暦寺を描いた絵巻 (レプリカ)
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山内に80余の塔頭などが建ち並ぶ大寺院だった。






ご住職の右側にある宝篋印塔が信円のものと伝わる墓
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ほかの2つの宝篋印塔は、良円、松殿基房の墓と伝わる。







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信円★ 周辺の人たち

  父:藤原忠通 (春日若宮おん祭を始めた人)
  同母兄:松殿基房 (殿下乗合事件関係者)★
  異母兄:九条兼実 (平家嫌いで有名。日記『玉葉』で平家への苦情を記したクジョウさん)
  異母弟:慈円 (天台座主。『愚管抄』筆者)
  従兄(実兄とも):藤原基実 (近衛家の祖)
  甥:良円 (九条兼実の息)★
  甥:実尊 (松殿基房の息)

     ★正暦寺にこれらの人たちのものと伝わる墓がある。


信円は解脱房貞慶や俊乗房重源とも親交があったようです。
南都焼き討ち後、興福寺の別當となり、その再興に尽力しました。
また東大寺再興の大勧進・重源さんとも親交があったことから、
文治元年(1185) の東大寺大仏開眼法要の咒願師、建仁二年(1203) の東大寺総供養の導師を務めています。

平重衡が処刑されたのは、文治元年6月23日。
その約2か月後の文治元年8月28日、大仏開眼法要が行われています。
信円は、元仁元年(1224) 11月19日、正暦寺(菩提山正願院)で亡くなりました。
享年72歳。当時としては、天寿を全うしたと言っていい年齢でしょう。



“ 先に私の首が。。。む、無念じゃあ~ ”
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(平重衡)






<南都焼き討ち被害寺社一覧> (一部伝承のものあり)

     東大寺
     手向山八幡宮(旧)
     興福寺
     率川神社
     隼神社
     般若寺
     元興寺
     法華寺
     不退寺
     超昇寺(現在廃)
     佐紀神社
     正暦寺 〔以上、奈良市内〕
     當麻寺 〔葛城市〕
     神童寺 〔京都府木津川市〕
        → 拝観のしおりには南都焼き討ちの際、平資盛によって焼かれたとあるが、平重衡の間違いでしょう。
     内山永久寺(現在廃) 〔天理市〕 ★今回追加




正暦寺




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なむさいじょう

Author:なむさいじょう



阪神エリア在住のおっさん。
時間を見つけては奈良めぐり。

※2013年までの過去記事は本サイトへインポート後、一部を除いてリンクの更新等を行なっておりませんので見苦しい部分があります。ご了承ください。
※過去記事へのコメントも歓迎。

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