平重衡を追う(57)~ 敵の敵・横川覚範



横川覚範の供養塔と首塚
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吉野の上千本に、横川覚範 [よかわのかくはん] の供養塔と首塚があります。

以下、説明板から抜粋・要約:

  文治元年 (1185) 12月、兄の頼朝の怒りに触れた源義経が、家来 (武蔵坊弁慶、佐藤忠信、伊勢の三郎、
  常陸房 [ひたちぼう] 海尊、鷲尾の七郎、片岡の八郎) と、静御前を連れて雪の吉野山に入り、
  吉水院 (吉水神社) に身を隠していた。
  ところが、あてにしていた金峯山寺の僧兵が敵になったため、吉野水分神社まで逃げた。
  僧兵の中でも屈強の横川覚範が追ってきたので、佐藤忠信が義経の身代わりとなって戦い、
  花矢倉から矢を浴びせて覚範を討ち取り、そのすきに義経一行を落ち延びさせた。
  討たれた覚範の首が埋められたのがこの場所と伝わる。


「横川」 なので、比叡山の僧だったのでしょうね。
そういえば、武蔵坊弁慶も比叡山にいたな。


横川覚範首塚から少し登ったところにある花矢倉の展望台
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(現状、立ち入り禁止)

しかし、大量の矢はどうやって手に入れたのか?
















今回の記事はあまり平重衡に関係のない余談っぽいのですが、さらに余談です。



勝手神社
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 中千本バス停の横にある勝手神社は、2001年に放火により焼失してしまいました。
 立ち入り禁止だった境内は、最近になって入れるようになりました。
 静御前が追っ手に捕まったときに、この境内で舞を舞ったと伝わります。








白拍子の舞
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 静御前の母・礒野禅尼は今の大和高田市が出身地と言われ、吉野で捕まった娘とともに鎌倉へ送られました。
 静は鎌倉で義経の子を産みましたが、男子であったため頼朝の命により赤子は由比ヶ浜で殺されました。
 静御前と礒野禅尼は釈放され京都へ戻ったとされますが、その後の消息は不明のようです。
 郷里の大和高田市に戻ったとも言われています。
 このため大和高田市には、静御前や礒野禅尼の伝説が残っています。
 写真は奈良大立山まつり2017で披露された 「白拍子の舞」 で、大和高田市の出し物。
 もちろん静御前をイメージしていますね。




 比叡山・横川ゆかりの僧侶といえば、慈慧大師良源 (元三大師)、恵心僧都源信が有名。
 良源はおみくじを始めた人。
 源信は 『往生要集』 を著した人。奈良博の源信展、楽しみです。


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