源平ゆかりの高野山寺院 (番外)



その他にもある源平ゆかりの高野山スポット。



(1) 対面桜


中門
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対面桜
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(2015.5.25)



 2015年に再建された中門の北側に桜の木があります。
 傍らの説明板によると、

 - 対面桜 “Taimen Zakura (Face-to-face Cherry Tree)”
   平安時代の久安五年 (1149) 5月に大塔が落雷で焼失し、修造奉行として平清盛が任命され、
   保元元年 (1156) 4月29日に大塔を再建しました。
   修造が終わり、供養のため登山された折、大塔の桜の樹のもとに弘法大師が現れてその功を讃えられ、
   清盛はそれ以来ますます随喜崇敬の念を深めました。
   平清盛と弘法大師が対面した場所にあった桜の木は 「対面桜」 と呼ばれるようになりました。 -

 今見る桜の木は、この言い伝えをもとに比較的最近植えられたものでしょうね。
 「ふぇいす・とぅー・ふぇいす・ちぇりー・つりー」 って表現でいい?





(2) 鳥羽天皇皇后得子 高野山陵


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(2013.10.28)



 藤原得子 (美福門院) は、鳥羽法皇の后。
 皇位継承に係る陰謀が渦巻く中で、保元の乱の原因を作ったとも言われています。
 高野山に帰依していた美福門院は、死後、高野山に葬るよう遺言したそうです。
 女人禁制の高野山は埋葬の賛否で大騒動になったようですが、結局、遺言どおりになりました。
 武家政権が始まったのは、美福門院が亡くなった永暦元年 (1160) の約30年後でした。
 御陵の奥のほうを見ると、五輪塔と無縫塔が隣り合って立っていました。
 御陵は蓮華谷にあって、不動院が供養奉仕をされているとのこと。

 高野山霊宝館で2017年春に開催された 「霊場高野山 納骨信仰の世界」 展で、
 『紀伊国名所絵図』 から、永暦元年 (1160) 美福門院の遺骨を弟の備後守時通が高野山へ納骨するため
 高野山町石道を登る様子の絵が紹介されていました。





(3) 六角経蔵


奥に見えるのが六角経蔵
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把手を押して回します。
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(2017.11.10)



 壇上伽藍にある六角形の経蔵で、荒川経蔵とも言われます。
 手元の資料によると、以下のとおり。
   美福門院が六角経蔵を建立したのは鳥羽法皇の菩提を弔うためで、
   紺紙に金泥で浄写した一切経をこの経蔵に納めた。
   この紺紙金泥一切経は、美福門院が領地の荒川荘 (現在の紀の川市桃山町付近) を灯明料として寄進したことに
   由来して、荒川経とも呼ばれる。
   火災で何度か焼け、現在の建物は昭和九年 (1934) に再建されたもの。
   経蔵の基壇の上のところに把手がついていて、それを押すと上部が回転するように作られていたが、
   現在の建物では枠だけが回るようになっている。
   一回りすれば一切経を読誦した功徳が得られると言われている。
   この経蔵に納められた紺紙金泥一切経は現在3,560巻ほどが現存して、重要文化財として霊宝館に収蔵されている。

 ワタクシも押し回しましたが、以前に比べてあまり力を入れなくても回るようになった気がします。(改良された?)
 功徳がたくさん得られるように、5周しました。



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