胡宮神社


“ちょうげニスト” としては、胡宮 [このみや] 神社も外せません。


胡宮神社
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多賀大社から南へ徒歩15分ほどの胡宮神社は、敏満寺 [びんまんじ] の鎮守社でした。
敏満寺はかつて湖東地域で大きな勢力を持つ大寺院だったようですが、戦国時代に焼き討ちに遭って廃寺となりました。
寺院の中心部は現在の胡宮神社の境内付近だったそうです。
胡宮神社には難を逃れた寺宝が伝わっています。



(1) 金銅三角五輪塔
 塔の底に刻まれた銘文により、俊乗房重源が建久九年(1198) 12月に敏満寺本堂に奉納したものと分かります。
 高さは約40cm。
 経済的に豊かだった敏満寺は東大寺再興のために多額の寄付をしたらしく、後日、大願を果たした77歳の重源さんからお礼に贈られたもののようです。
 重源さんの事績が記された 『南無阿弥陀仏作善集』 にも、この塔のことが出ています。


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(図録より拝借)




胡宮神社境内にある三角五輪塔
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石造の模造品です。
オリジナルの約2倍の高さとのこと。





(2) 舎利寄進状
 重源さんが上記の金銅三角五輪塔を敏満寺に奉納した時の添え状です。
 重源さんの花押もあります。


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(図録より拝借)





(3) 重源書状
 元久元年(1204)、重源さんは南都焼き討ちで焼失した東大寺東塔の再建に着手しています。
 完成したら大仏殿と東塔の前で千人のこどもに 『法華経』 を転読させたいと願っていたようで、この書状は敏満寺に対して周辺のこどもを何人か寄こしてほしいと要請したもの。
 残念ながら重源さんは、建永元年(1206) 6月5日、東塔の完成を見る前に86歳で亡くなりました。




(4) 仏舎利相承図
 白河法皇が中国から入手した仏舎利が、祇園女御に伝えられ、さらにそれが 平清盛 に伝えられたことを示す、鎌倉時代初期の文書。
 平清盛の実父が白河法皇で、実母が祇園女御の妹であることが記されている、大変よく知られた文書です。




これらの寺宝は現状は胡宮神社にはなく、博物館(町立文化財センター?) に寄託されているようです。



境内にある重源さんの顕彰碑
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滋賀に重源さんの碑があるとは存じませんでした。







少し高台にある境内から見た風景。

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この風景を見てピンと来た人は、正倉院に伝わる古地図に相当詳しい方でしょう。
今は人家が多いですが、このあたりはかつて水沼 [みぬま] 荘という東大寺の荘園でした。
天平勝宝三年(751) に描かれた 「近江国水沼村墾田図」 はまさにこのあたりの絵地図で、写真左手に見える池(かつて水沼池と呼ばれた大門池)も描かれています。
この池は奈良時代からこの辺りの田を潤してきました。
平安時代の古文書には、東大寺法華堂(三月堂) で行われる千灯会の経費をまかなうための荘園として記録されています。


境内にある水沼村墾田図の模写
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境内は紅葉に覆われていました。

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寺はなくなっても、地名に残っています。

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東大寺にゆかりのある水沼荘の地と、重源さんにゆかりのある敏満寺の跡を訪れることができて、至福の旅でございました。



胡宮神社



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