大仏殿の扁額


東大寺大仏殿に入って左の柱にかかっている扁額。



以前から気になっていました。
板に文字が彫ってあるのが分かります。が、
よく見えないので撮影後、拡大して一文字ずつ拾ってみました。(たぶん間違いあり)






内容としては、薩摩のお殿様(島津氏)がご先祖様の供養と子孫の幸福を祈るために、曼荼羅の台などを奉納したしたことが書かれています。
日付けは宝永6(1709)年3月14日。
公慶上人らの尽力で再建なった大仏殿の落慶供養(3月21日~4月8日)の直前です。

奉納された曼荼羅の台は、今、どこ?





文章の前半部分は大仏殿創建後の再建の経緯が書かれていて、聖武天皇、源頼朝(=右幕下)、重源上人、公慶上人などの歴史上のビッグネームがずらりと並んでいます。

「勅許」の文字は敬意を表するために改行した後に文頭で書かれて、次の文字との間に一文字分あけていますね。

ただ、この島津のお殿様、源頼朝の後裔と称しているんですが、どうなんでしょう。



大仏と大仏殿の再建に心血を注いだ公慶上人。
宝永6(1709)年の大仏殿落慶供養には、その姿はありませんでした。
宝永2(1705)年に亡くなっていたからです。
過労死だったとも言われています。
さぞかし無念だったでしょう。


公慶堂の公慶上人像は、大仏殿に向けて安置されています。





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★ハミさん、こんばんは!
そうでした。
NHKの「歴史秘話ヒストリア」で公慶さんが取り上げられて、宮崎県から大木を奈良に運ぶ一大プロジェクトもやってましたね。
扁額に、薩摩、大隅、日向の三州を治める島津吉貴が記した、とありますから、そのご縁なんでしょうね。
★らんさん、こんばんは!
松永久秀が1567年10月10日、大仏殿を焼いたとありますね。
そして10年後の同じ10月10日、信貴山城で自爆死。
仏罰ですね。
★かぎろひさん、こんばんは!
扁額の内容の正確な意味は分からないものの、全体を眺めているとなんとなく分かりました。
前半は分かりやすいですね。
自領で切り出されて運ばれた大木が大仏殿の虹梁に使われたことは、島津吉貴にとって誇りだったでしょうね。
こういう貴重な時代の証拠がちゃんとこうやって掲げられていることが、感動的です。
公慶さんの後を引き続いた公盛さんは無事大仏落慶供養ができて、さぞかし嬉しかったでしょう。
たしか、墓所は公慶さんと並んでいましたね。

こんばんは!
この扁額にはこういうことが書かれていたのですね。
ご紹介ありがとうございます。
ちょっと、感動しています。
この短い文章の中にあるすさまじいドラマに、身震いする思いです。
淡々と書かれているだけに、ずしりとくるものがあります。
公盛さんの心はいかばりだったでしょうね。
おっとそれから、丁寧に文字を拾われたなむさいじょうさんにも感謝です。
お疲れさまでした!

10月10日、東大寺大仏殿の忘れもしない日。
さすが、なむさいじょうさんです。

大仏殿の虹梁は薩摩の木でしたよね、そのご縁なのでしょうか。
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