俊寛塚




奈良にも、俊寛ゆかりの場所があります。


俊寛塚
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冬なら「塚」の字が草で隠れずに見えるでしょう。
場所は、なら土連会館の前。




「俊寛塚」の説明板から抜粋して要約。

    「鹿ケ谷の陰謀」(治承元年、1177)に組した俊寛僧都は、
   南方の鬼界ヶ島に流罪となり、許されることはなかったが、
   弟子の有王によってひそかに連れ戻され、晩年をこの地ですごした、
   と江戸時代の南都案内書「奈良名所八重桜」や「大和名所図会」に伝えられる。
    その伝承によって古くからこの地は、鬼界島、あるいは俊寛ヶ辻と呼ばれ、
   標石「俊寛塚」が建立されて、南都名所のひとつとなった。
    俊寛僧都が幼少より興福寺興善院[こうぜんいん]で勉学し、
   のちに京都の法勝寺[ほっしょうじ]に住することになった大縁から
   中世以降、このような伝承が生まれたと考えられる。




平家物語(覚一本)では、
俊寛の娘は奈良にいるおばさんのもとに身を寄せていたが、
12歳で尼になり、奈良・法華寺に入って父母の菩提を弔った、
とありますので、奈良に俊寛の親族が住んでいた可能性はありますね。

この俊寛塚は反平家方の興福寺の僧侶によって造られたのではないか、
という説があります。


見付けづらい場所にあるし、説明板の字も剥落しているし、
ほとんど忘れ去られている感あり。






    ≪追記≫

ひそかに奈良へ戻っていたとなると、この名場面はいったい。。。。

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かぎろひさん、こんばんは!

コメントありがとうございます。

かぎろひ誌で、ちゃんと取り上げられているのですね。
さすが、もう一歩深い奈良ですね。
菊水楼のあたりに若き俊寛がいたと想像すると、ちょっと感動的です。

奈良の鬼界島、俊寛田。。。。興味津々です。
今も使われている字名なのでしょうか。
字名はたしかにリンネさんのお得意の分野ですね。

余談ですが、今日7/12、京都へ行って、平康頼の供養塔を見てきました。
康頼は俊寛とともに鬼界ヶ島へ流罪になるも、許されて京に戻った人。
ついでに、祇園祭の長刀鉾の曳き初めで綱を曳いてきましたよ。(汗だく;)

可能性あり?

こんばんは!

かぎろひ誌旧刊の2号(約30年前^^;)で「俊寛は奈良で死んだ・・・」を取り上げたことを思い出しています。「俊寛塚」は30年前もやはり、ひっそりして忘れられたような感じがありましたよ。

北側の、菊水楼のある場所は元、興福寺の塔頭「興善院」があったところで、ここは俊寛の師である蔵俊僧正の御堂だったとか。師を頼って奈良へ逃れた可能性はありますよね。

追伸
おはようございます。
一夜明けて読み返してみたら、かなり的はずれなコメントをしておりました<(_ _)>
俊寛が幼少時より興善院で勉強していたことは説明板に書かれていましたね^^;

で、別の話を。俊寛が隠れた正覚寺の境内と奈良教育大のキャンパスには鬼界島があるそうな。「俊寛田址」なる地名も。このあたりはリンネさんの専門域になりそうですが・・・
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