平重衡を追う(44)~ 日野の墓



重衡の「日野の墓」

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「いつもお世話になっています」 (なむ)








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説明板の内容は京都市の見解。




壇ノ浦の戦いで捕虜となって京都へ戻った後、
醍醐と日野の間にお屋敷があった姉・藤原成子(=大夫三位 [だいぶのさんみ] )のもとに
身を寄せていた正妻・藤原輔子さん(=大納言典侍)。
木津川の川原で処刑された夫・重衡の首と胴体(むくろ)を
依頼して日野に届けてもらいました。



   「頸もむくろも煙になし、骨をば高野へおくり、墓をば日野にぞせられける。」
                           (『平家物語』重衡被斬)

 → 藤原輔子は夫・重衡の首も胴体も日野で荼毘に付し、
   遺骨は高野山へ送って、日野には墓を建てた。


『平家物語』を読む限り、日野には遺骨は埋葬されていません。
日野には、今でいう供養塔が建てられたようです。
重衡の兄・重盛の墓の前例があるように、遺骨を高野山に埋葬したのは、
源氏側に墓を荒らされないようにするためでしょう。



「従三位 平重衡卿 墓」と刻まれた墓石の裏には、
大正時代にこれを建てたと刻まれています。
そのころ重衡を顕彰する動きがあったのかも知れません。

その墓石の隣には、五輪塔が並んでいます。

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うしろから。
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ただ、五輪塔の石の組み合わせがまちまちでバランスが悪く、
付近に散らばっていたものの寄せ集めに見えます。
当初からの石も混じっているかもしれませんが、
中には「応永」の年号(西暦1400年前後)が刻まれているものがあります。

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応永年間は室町時代で、足利義満が生きていたころ。
重衡が処刑されたのは1185年ですから、時代が違います。




江戸時代の名所ガイドブック『都名所図会』に、
重衡の塚が日野村の“茶園(茶畑)の中にあり”と紹介されています。
今は団地に囲まれた一画にあります。

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周辺住民の方々によるものでしょうか、手入れがされているのが分かります。




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【妄想】

  重衡の「日野の墓」がある今の場所は荼毘場とも考えられるが、
  もしかしたらこの一帯は大夫三位の屋敷があったところで、
  その敷地の一画に目立たぬように重衡の供養塔が置かれていたのが、ここかも。
  鎌倉時代の文献(『簡要類聚鈔』)に
  その屋敷には輔子さんの墓があったと記されていて、もしかしたら
  重衡の供養塔と輔子さんの墓が寄り添うように並んでいた比翼塚だったかも。





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