平重衡を追う(45)~ 重源さんと仲間たち



高野山の真別処・円通律寺。

開基は弘法大師の十大弟子のひとり、智泉と伝わっています。
平安時代末期、荒廃していたのを再興したのが、醍醐寺の僧で東大寺再興の大勧進・俊乗房重源さん。
当時は専修往生院と言っていたようです。

俊乗房重源さん
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平重衡の南都焼き討ちで甚大な被害を受けた東大寺を再興するために、
重源さんは各地に勧進拠点となる「別所」を設けました。
ただし高野山別所(専修往生院)は、東大寺再興に係わる以前にすでに重源さんによって設けられていて、
浄土信仰による念仏聖 [ひじり] の活動拠点だったようです。

この専修往生院では、重源さんのもとに24人の念仏衆(蓮社友)がいて、
その中には以下のような人々もいたようです。

    有王丸
    斎藤時頼 (滝口入道)
    平維盛
    木工右馬允・知時
    熊谷直実
    藤原成頼
     ・
     ・


『平家物語』に出てくるおなじみの面々ですね。

有王丸が俊寛の遺骨を持ち帰る話には、泣かされます。
高野山の麓にある天野の里には、有王丸の墓がひっそりとあります。

重衡の兄・重盛に仕えた斎藤時頼(滝口入道)と横笛の悲恋物語。
横笛ちゃんのお墓も天野の里にあります。

  ※ 有王丸の墓/横笛ちゃんの墓 →

光源氏っぽい平維盛は、重衡の甥。

木工右馬允・知時 [むくうまのじょう・ともとき] は、重衡の使用人。
重衡の愛人・内裏女房のもとへ重衡の手紙を届けたり、
重衡の処刑の場(木津川のほとり)に駆けつけて阿弥陀像を近所から借り、重衡の最期を見届けた人物。
京都・日野から高野山へ重衡の遺骨を運んだ人物とも言われています。

熊谷直実は重衡のいとこ・平敦盛くんを討ち取りました。
円通律寺の北のほうに、ゆかりの熊谷寺があります。

藤原成頼は、平重衡の妻・藤原輔子(=大納言典侍)の姉・藤原成子(=大夫三位)の夫。
重衡は義弟にあたります。




昔は専修往生院と呼ばれた真別処・円通律寺。
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重源さんと仲間たちがこのあたりにいたようです。
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ちなみに、重源さんとともに東大寺再興にあたった造東大寺長官・藤原行隆は、
平清盛のおかげで官僚に復帰できたので、平家にとても恩を感じている人。
『平家物語』の「行隆之沙汰」の段にも登場します。

重源さんは、醍醐寺座主で東大寺別当も務めた勝賢とも親しかったようです。



重源さんの人的ネットワークの広さ。
こういった人々の協力があって、処刑後から高野山への遺骨埋葬まで
重衡に対する慈悲深い処置ができたのかも知れません。

南都焼き討ちによって溶け落ちた大仏を再度鋳るための溶鉱炉に、
夫・重衡が所持していた銀・銅製品を供養のために寄進したいとの
妻・藤原輔子の依頼を重源さんは快く許してもいます。(『東大寺続要録』)





<余談>

  東大寺再興の際の造東大寺長官・藤原行隆は、再興事業の途中で死去。
  過労死だったとも言われています。
  嘆き悲しんだ幼い娘は、亡くなった父親へ手紙を届けて欲しいと
  お地蔵さまに毎日お祈りしました。
  7日目の朝、お地蔵さまの手に手紙が結び付けられていました。
  その手紙は亡き父親の筆跡による返事で、娘は驚くとともに大喜びした、
  という伝説があります。
  このお地蔵さまが、現在、東大寺塔頭知足院におわす「文使い地蔵」です。
  もともとは、やはり塔頭の惣持院に安置されていましたが、
  明治時代に惣持院が廃寺となったため知足院へ移されたそうです。





※ 参考文献:角田文衛『平家後抄』、五来重『高野聖』など。

※ 今回の記事の写真は再掲です。あしからず。



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