平重衡を追う(53)~ 平家に寄り添う重源




俊乗房重源
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(図録から拝借)



東大寺大勧進・俊乗房重源さんは、“凶賊の平家” (源頼朝 談) に対しても、宗教家として慈悲深い対応をしています。
以前の記事で個別に紹介しましたが、改めてまとめます。




1.平重衡の妻からの依頼を快諾 (その1)

  治承4年(1180) 12月28日の南都焼き討ちの張本人・平重衡の正妻・大納言典侍 (藤原輔子)
  [だいなごんのすけ (ふじわらの ほし) ] は、溶け崩れた大仏を再び鋳造するための溶鉱炉に
  夫が所蔵する銀・銅製品の寄進を希望し、重源さんはこれを許した。

   → これは 『東大寺続要録』 という鎌倉時代の記録書に出ています。
     これ知ったワタクシは当初、処刑された重衡の菩提を弔うためと思いましたが、
     改めて調べてみると、どうやら大仏の再鋳時期は重衡の処刑前だったようです。
     ということは、重衡の奥さんは罪のない人々が大勢焼け死んだことに胸を痛め、
     その菩提を弔うために寄進したいと申し入れたのではないか。
     現在の大仏さまの腰のあたりが鎌倉時代の部分とのことなので、
     ここに重衡の所蔵品が溶け込んでいる可能性があります。
     大仏さまを拝むとき、知らず知らずに被害者の供養をしているとも言えます。


   (関連記事)
       ・平重衡を追う(7)~ ゆかりのグッズ
       ・平家にも優しい重源さん(3)


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2.平重衡の妻からの依頼を快諾 (その2)

  仏敵・大罪人とされた重衡は木津川の河原で処刑されたあと、
  般若寺前の鳥居にその首をさらされたが、妻の大納言典侍は取り返して欲しいと依頼し、
  重源さんはこれに応じて妻のもとへ届けさせた。

   → これは 『平家物語』 「重衡被斬」 に出ています。


   (関連記事)
       ・平重衡を追う(6)~ 高野山にある墓
       ・平家にも優しい重源さん(3)





3.平重衡の甥を源氏の平家残党狩りからかくまった

  平清盛の孫で、平重盛の七男・平宗実 [たいらのむねざね] 。
  重衡の甥にあたるこの人物、重源さんのもとで出家した。
  宗実はすでに養子に出ていたものの、源氏側の徹底的な平家殲滅作戦から逃れさせるために、
  重源さんは宗実を出家させて東大寺の油倉に一時かくまった。

   → これは 『平家物語』 「六代被斬」 に出ています。
     現在は東大寺本坊の敷地にある校倉造りの経庫 (国宝) が、その油倉ではないかとされています。


  (関連記事)
      ・平家にも優しい重源さん(1)


【国宝】 経庫 (東大寺本坊)







4.阿波民部重能の阿弥陀仏を東大寺に引き取った

  阿波民部重能 (成良) [あわのみんぶしげよし] は平家側の家人、武将だったが、
  壇ノ浦の戦いで源氏側に寝返り、平家軍の敗北を決定的なものにした。
  源氏側に勝利をもたらしたにもかかわらず、その後、
  重能は籠に入れられたまま火あぶりの刑というご褒美が与えられた。

  治承4年(1180) 12月、平重衡を総大将とする平家軍が奈良に攻め入ったとき、先鋒を務めたのがこの阿波民部重能。

  この重能、出身地の阿波国にお堂を建てて、9体の丈六阿弥陀仏を安置するつもりだった。
  あるじを失った阿弥陀仏は重源さんによって東大寺に引き取られ、現在の俊乗堂の場所にあった浄土堂に安置された。

  重衡と同じように仏敵・大罪人とされた重能を供養する意味もあったのかも知れません。


  (関連記事)
      ・平家にも優しい重源さん(2)


俊乗堂 (浄土堂跡)
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重源さんが86歳で亡くなった場所でもある






5.南都焼き討ちで火付けを命じられた部下の甥を弟子に

  南都焼き討ちのとき、重衡から火付けを命じられた下司二郎友方 [げしじろうともかた] 。
  その後、友方は熱病に罹って死亡し、その一族にも伝染して皆亡くなったという。
  唯一生き残った友方の妹は、一族の死は仏罰によるものと思い、
  南都焼き討ちの犠牲者を供養するため息子を出家させ、重源さんの弟子にしたという。

   → これは特別展図録 『義経の見た風景』 (発行:小野市立好古館) などで紹介されています。


  下司二郎友方の屋敷跡 (兵庫県小野市) を訪問したときの関連記事は以下でどうぞ。

  (関連記事)
      ・平重衡を追う(20) ~ 南都焼き討ち実行犯





6.組織した念仏集団に平家側人物も

  東大寺再建の勧進活動の拠点として各地に設けた別所のうち、
  高野山に置おかれたのが真別処・専修往生院 (現在の円通律寺) 。
  そこで 「二十四蓮社友」 と呼ばれる念仏集団を組織した。
  その集団には以下のような人々も。

    木工右馬允知時: 重衡の家人。重衡の愛人のもとに手紙を届けたり、木津川での処刑に立ち会った。
    平維盛: 重衡の甥。一時期、光源氏っぽい人だった。
    斎藤時頼 (滝口入道): 重衡の兄・重盛の元部下。建礼門院の雑仕だった横笛ちゃんの元恋人。
    熊谷直実: 重衡の兄・知盛の元部下。
            のちに源氏側につき、一ノ谷の戦いで重衡の従弟・平敦盛の首をはねた。
    藤原成頼: 重衡の妻・大納言典侍の姉・大夫三位 (藤原成子) の夫。

   → 五来重 『高野聖』 などによる。

  重源さんの周辺には、上記のほかにも阿弥陀信仰に係わる人々がいたようです。
  仏敵とされた重衡を京都・日野で荼毘に付し、その遺骨を高野山に埋葬することができたのは、
  重源さんがその人的ネットワークを有効活用したからではないかと推測します。

  (関連記事)
      ・円通律寺の花祭り







。。。。。重源さん、その心情は実は平家寄りだった?

61歳で東大寺再興の勧進職を引き受けたのも、
生涯をかけて平家の皆さんが救われるよう作善するためだったのではないかと、妄想。



重源さんのお墓 (奈良・三笠霊苑)
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ぜひお参りを!





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